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邪馬台国が九州にあったとしか思えない根拠を解説

  邪馬台国論争について、最近は畿内説が有力だと聞いても、邪馬台国が畿内にあったとは私には思えないのですが、それについて考えを整理してみました。 一言で言うなら、魏志倭人伝における以下の話が事実であるなら、邪馬台国が畿内にあったはずがない。という説明になります。 ************* 女王国の南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。 ・・・・・ 正始八年(247)、帯方郡の太守が魏国の官に到着して報告した。 倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。 倭国では、載斯・烏越などを帯方郡におくり、たがいに攻撃する状況を説明した。 郡は塞の曹掾史の張政らをつかわして詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。 *************** 女王卑弥呼と狗奴国との間で戦争があったことが倭国から魏国に報告され、魏国は使者を送って互いに攻め込まないようさとした。 ということです。 さて。 もし卑弥呼の国、つまり女王国が畿内にあったとすると、狗奴国はその南の紀伊の国か、そうでなければ近畿より東の東海か北陸か、さらに遠くの関東あたりということになります。 この場合、女王国は九州から瀬戸内を経て畿内にまで及ぶ、つまり西日本のほぼ全域を支配する大勢力ということになります。 そんな女王国に対し紀伊の国の勢力が互角の戦いができるわけがない。女王国が紀伊の山中に攻め込んだら負けるかもしれませんが、紀伊から畿内に攻め込んでもし勝ったとしても、女王国は西国から兵力を動員して畿内を奪還するでしょう。 卑弥呼の政権が西日本の兵力を投入しても紀伊に勝てないほどの弱体政権であれば、女王国に属する西日本の地方勢力は女王国から離反してしまい、畿内に政権を維持することすらできない。 これは狗奴国が東海や北陸にあっても同じで、九州制圧後の豊臣秀吉に匹敵する勢力である女王国が、それより東に存在する狗奴国と戦って攻め込まれたあげく、恥を忍んでわざわざ魏国に使者を派遣してその恥ずかしい事実を報告して(要するに泣きついて)、困った魏国が倭国に使者を派遣して仲裁するなどということがありえるはずない。 このことは日本地図を見ながら想像してもらえば、細かく説明しなくともご理解いただけると思いま