八幡宮の謎を解き明かす 神功皇后と応神天皇はあの人のことだった 神功皇后説話は権力奪取を正当化するための虚構

2022.3.27 このブログを作っていて気が付いたこと。

宇佐八幡宮は全国の八幡宮の総本社として有名です。祭神は次のとおり。

一之御殿:八幡大神 誉田別尊(応神天皇)

二之御殿:比売大神 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)

三之御殿:神功皇后 息長足姫命

なおこのサイトは「古代史妄想探偵」ですから、世間一般の「常識」がどうであるかを土台にして、その「常識」の間違っているところを発見して推理することを目的としています。この場合、ウィキべディアがもっとも「世間一般の常識」を反映すると思うので、もっぱら「ウィキペディア」から引用します。さて。

八幡宮には謎が多いですが、祭神の神功皇后とその子である応神天皇は日本書紀に登場する歴史的?人物とされています。

神功皇后の話をごく簡単に説明します。

日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。

<神功皇后略歴:wikipediaより>

仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月(仲哀天皇崩御の十月十日後)、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

以上

さらに、神功皇后の夫である仲哀天皇の略歴について、重要なので以下のとおり。

即位8年、熊襲討伐のため妻の神功皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。

これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。翌年2月に急死して神の怒りに触れたと見なされた。

以上


簡単に言うと、神功皇后と仲哀天皇は夫婦であり、神功皇后は新羅に出兵したがったが仲哀天皇が反対した。そしたら神が怒って仲哀天皇を祟り殺したのです。そのあと神功皇后は新羅討伐に成功し、帰国すると、自分の子とともに、仲哀天皇の子を攻め破って滅ぼし、その後、即位したのが神功皇后の子、応神天皇である。


さて、この「斉明天皇の謎」編でいろいろ語ってきた中で、斉明天皇(宝姫)が弟(真実は兄と推測)である孝徳天皇(軽皇子)から王権を奪う話がありました。

日本書紀によれば、乙巳の変後に即位した軽皇子は、当初百済の支援を受けており、半島出兵に備えて宮を明日香から難波に移転しましたが、妹である宝姫とその子である中大兄皇子は間人皇后と官僚団を引き連れて明日香へ引っ越し、孝徳天皇は失意のうちに病死しました。

そこで次のように推測します。

難波に移転したあと、孝徳天皇は新羅との対決に不安を感じて徐々に百済との間に距離を置くようになったので、百済が宝姫と中大兄皇子らに働き掛けて、孝徳天皇(軽皇子)から実権を奪わせ、孝徳天皇は失意のうちに病死してしまった。

宝姫が祟られていたことはすでに説明しましたが、宝姫と中大兄親子がやったことの正当性について、持統政権も気になるはずです。持統天皇の父と祖母が不当に王権を奪った歴史を消さなければ、持統政権の正当性に傷がついてしまいます。

そこで思いついたのが神功皇后説話を創作するという方法でした。

神功皇后は新羅を討つため筑紫に出兵するが、夫の仲哀天皇は半島出兵に反対していた。

日本書紀において、仲哀天皇がそれだけの理由で神の怒りを買って死んでしまったことにしたのは、<半島出兵(新羅征討)という義務を果たさないことは罪である>と日本書紀を通じて主張したかったからです。

ここで思い浮かぶのは、伽耶回復という遺命を残したとされる欽明天皇。

天武政権では反唐・親新羅であったが、持統・藤原政権は反新羅に転向しました。神功皇后の事績における仲哀天皇の存在は、実は孝徳天皇を暗示しているのではないか。

孝徳天皇は百済の意思に反して新羅出兵を拒否したから、彼は政治的に抹殺され、その後、孝徳天皇の子である有馬皇子と中大兄とで王位継承争いになり、有馬皇子は宝姫と中大兄によって滅ぼされた。

この事実を正当化するために、神功皇后の説話を作って、暗に次のように主張した。

孝徳天皇も仲哀天皇と同じように新羅征伐に反対したから欽明天皇の祖霊によって呪い殺され、王権を奪われて当然だ。

この話をアピールするために八幡宮が作られたと妄想しています。

ならば、主祭神のうち、応神天皇は中大兄皇子(天智天皇)であり、神功皇后は宝姫(斉明天皇)です。主祭神ではありませんが、八幡宮で一緒に祀られていることがある仲哀天皇は孝徳天皇。

ここで注意したいのは、孝徳天皇は宝姫の兄弟ではありますが夫ではありませんから、仲哀天皇が神功皇后の夫であったこととは矛盾することです。

しかし、応神天皇は仲哀天皇崩御から<十月十日後>に生まれたとされている点が重大です。応神天皇が仲哀天皇の子ではないことを日本書紀はわざわざ臭わせているのです。

宝姫が孝徳天皇の皇后でなくても矛盾しないわけですし、さらには、斉明天皇が神功皇后のごとく本当は倭王でさえなかったことも暗示している可能性を感じます。

一方では、仲哀天皇にあたる人物として舒明天皇も可能性があるとも考えました。

理由はさきほどと同じく神功皇后の人間関係です。神功皇后は夫である仲哀天皇が別の女性との間に産んだ皇子を攻め滅ぼしたとされている。

神功皇后が宝姫であるなら、夫は舒明天皇であり、その子を滅ぼしたと考えると古人大兄皇子が思い当たるからです。

古人大兄は蘇我氏出身の母と舒明天皇の間に生まれましたが、乙巳の変のあとで中大兄皇子に滅ぼされたとされますから、この罪を正当化する目的で神功皇后説話が利用された可能性も考えています。

もしかすると、孝徳王朝滅亡と古人大兄謀殺。この二つの行為を同時に正当化するために、わざとこのような複雑な物語に仕立てたのかもしれません。

同時に神功皇后説話は、

「<英雄的な女性>から生まれたことは王位継承における重要な判断材料である」

とも主張したいのです。

これは持統天皇の血統を正当化するうえで重要な「前例」ということになります。

日本書紀は持統天皇の血統が天皇家の原点であるという原理を固定化するために創作されました。

そして、持統天皇の父である中大兄皇子による王位継承を正当化するために、倭王家の系図を改ざんしたり、神功皇后の説話を創作したと妄想しています。

天武天皇にはたくさんの皇位継承候補が存在しました。それを押しのけて、持統天皇の孫である軽皇子(後の文武天皇)に皇位を譲らせ、さらにその血統を保持することは、とても困難な道であったにちがいないのです。

こう考えると、神功皇后や応神天皇を実在の人物として捉えることにはあまり意味がなく、むしろ持統政権を分析するうえでの重要な素材であると思えるのです。

そして、応神天皇の実態が天智天皇であったとすれば、宇佐八幡宮神託事件で八幡神が登場する理由や、平安時代になって天皇家の血統が大友皇子の系統に移ってから八幡神が重視されるようになった理由も想像しやすくなります。

さらに余談ですが、皇極天皇だけでなく斉明天皇についても、その実在が疑わしくなってきました。

宝姫は倭王に一度も即位したなかったのではないか、という可能性を感じていますが、それはまたいずれ。


日本書紀による系図




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