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善光寺の謎 7世紀の謎を解くカギとなる斉明天皇の秘密

善光寺は日本最古の秘仏とされる阿弥陀如来像があり、日本有数の古さを誇る寺ですが、歴史的に謎が多い寺です。 その阿弥陀如来像は6世紀に蘇我氏の庇護によって百済から日本へ仏教が伝えられたときにもたらされたものですが、その後疫病が流行したとか。 当時、蘇我氏と対立する物部氏は、仏教のせいで神々が怒ったのだと主張して仏教を弾圧し、仏像を難波の堀江に捨ててしまいました。 それを拾って信濃の国に持ち帰ったのが本田善光、つまり善光寺の創設者とされる人物ですが、この人も謎めいています。 蘇我稲目が保管していた仏像を本田善光が拾ったという不思議な話。 そして気になるのはその「善光」という名前です。 蘇我稲目の子の蘇我馬子には蘇我善徳という長男がいました。蘇我蝦夷の兄であり、蘇我入鹿の叔父にあたります。 馬子とか蝦夷とか入鹿とか、イメージの悪い文字が使われる蘇我一族の名前の中で「善徳」は不自然ですが、むしろ馬子、蝦夷、入鹿の方こそ不自然で、これらは後世に作られた名前ではないか。 つまり、蘇我一族の名前は本来は「善」という字がよく使われていた可能性があります。 そこで「本田善光」が出てくるのですから、蘇我氏と関係があるような気がしてくるわけです。 善光寺に伝えられる善光寺縁起には不思議な話があります。 本田善光には善佐という息子がいて早死にしたのですが、阿弥陀如来の力で善佐はあの世から現世へ戻ることができました。 その戻る道中で、地獄へ連れてゆかれる皇極天皇を見かけたというのです。 皇極天皇は中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター(645年乙巳の変)によって蘇我入鹿が暗殺された際に、殺害現場に居合わせた女性天皇です。 蘇我氏を裏切った天皇が地獄へゆく話。 本田善光と蘇我氏との妙な関係。 さらに不思議なのは、善光寺の拝殿の配列ですが、秘仏でありご本尊である阿弥陀如来は参拝者からみて左側、つまり脇の方の瑠璃壇の奥にあって、中央には御三卿と言われる本田善光とその妻、そして善佐の像が安置されています。 阿弥陀如来でなく本田一族が本尊であるかのように思えてくるのです。 私は善光寺が蘇我氏の祟り封じのための寺ではないかと疑っているところです。 それでは、斉明天皇はなぜ祟られたのか。元の名で宝女王(たからのひめみこ)は二度天皇になった(重祚とかいう)古代史上とても重要な存在です。 日本書紀によれば、有名

斉明天皇が祟られた理由を分析

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 斉明天皇は日本書紀の謎を解くうえで重要な、そして複雑怪奇な人物です。以下に日本書紀からわかるプロフィールを記します。(ウィキペディアより) ********************* 諱(いみな) 宝(たから) 女性  西暦594年生まれ 661年死去 皇極天皇在位期間:642年2月19日 - 645年7月12日 斉明天皇在位期間:655年2月14日 - 661年8月24日 和風諡号:天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 父親 茅渟王 母親 吉備姫王 配偶者  一度目:高向王(用明天皇孫)   二度目:舒明天皇(敏達天皇の孫) 子女 漢皇子   天智天皇  間人皇女  天武天皇   皇居 皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮 ************** ◎日本書紀での人生の流れ 倭王一族として誕生(594年) 高向王と結婚し漢皇子を生む 高向王死去 田村皇子と結婚 中大兄皇子誕生(626年) 大海皇子誕生(生年不詳) 舒明天皇即位(629年) 舒明天皇死去(641年) 皇極天皇として即位(642年) 山背大兄王が蘇我氏の襲撃を受け滅亡(643年12月30日) 乙巳の変 蘇我本家滅亡 軽皇子に譲位して孝徳天皇即位(645年) 孝徳天皇死去(654年) 斉明天皇として即位(655年) 蝦夷平定 百済滅亡(660年) 筑紫の朝倉の宮へ出陣 斉明天皇死去(661年) 白村江の戦い(663年) ******************** 日本書紀系図はクリックすると拡大して開きます <謎> ①高向王と結婚したあと田村皇子と再婚しているが、再婚相手が天皇の最有力候補で、しかも子連れで結婚したとしたら、こういうことはありうるのか。 ②高向王の父親が不明なのはなぜか。 ③漢皇子についてなんの記録もないのはなぜか。 ④皇極女帝として在位中に山背大兄王が蘇我氏によって滅ぼされたとされるが、皇極女帝にとって山背大兄が邪魔だったのか。この滅亡にどう関与したのか。皇極女帝は蘇我氏の傀儡だったから関与しなかったのか。 ⑤宝姫が乙巳の変を事前に知らなかったとすれば、外交儀礼の場で暗殺が行われたのだから外交上の重大なリスクが懸念されたはずである。20歳

八幡宮の謎を解き明かす 神功皇后と応神天皇はあの人のことだった 神功皇后説話は権力奪取を正当化するための虚構

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2022.3.27 このブログを作っていて気が付いたこと。 宇佐八幡宮は全国の八幡宮の総本社として有名です。祭神は次のとおり。 一之御殿:八幡大神 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿:比売大神 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命) 三之御殿:神功皇后 息長足姫命 なおこのサイトは「古代史妄想探偵」ですから、世間一般の「常識」がどうであるかを土台にして、その「常識」の間違っているところを発見して推理することを目的としています。この場合、ウィキべディアがもっとも「世間一般の常識」を反映すると思うので、もっぱら「ウィキペディア」から引用します。さて。 八幡宮には謎が多いですが、祭神の神功皇后とその子である応神天皇は日本書紀に登場する歴史的?人物とされています。 神功皇后の話をごく簡単に説明します。 日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。 <神功皇后略歴:wikipediaより> 仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、 海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月 (仲哀天皇崩御の十月十日後) 、天皇の遺児である誉田別尊を出産。 翌年、 仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利 し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。 以上 さらに、神功皇后の夫である仲哀天皇の略歴について、重要なので以下のとおり。 即位8年、熊襲討伐のため妻の神功皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて 海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう 」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。 神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れら

日本と天皇のはじまりについて思う

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 国家を守るために命をかけて戦う人たちがいます。だとしたら「国家とはなにか」というテーマは重要です。「国家は命より重いもの」かもしれないから。では、日本という国家についてはどうでしょう。 特に私が気にしているのは、<日本の国家元首は誰か?>ということを、日本人はどんなふうに考えているのか。 ウクライナ共和国であれば大統領が元首だが、ウクライナ国民は元首のために戦うのではなく国家のために戦う。 だから、元首が誰であろうとたいしたことではない。 私もそう思っていました。それでも今、このことを気にしていることには理由があります。しかし、その理由はあえて後にゆずりながら、あなたに聞いてみたいのです。 日本の国家元首は誰? 「the head of state」 国家の頭。つまり「元首」は国家権力の核となる存在ですが、多くの日本人は日本の元首を総理大臣だと言います。  では、総理大臣を任命するのは誰か。日本国憲法によれば、国会の議決にもとづいて指名され、指名された者を天皇が総理大臣に任命します。  「指名」とは「この人です。」と指さすだけのこと。任命は「職務を任せる」ということです。  つまり、総理大臣の職務は、天皇が総理大臣に任せている。言い換えれば、総理大臣の職務は本来、天皇が行うべきものだということです。  <天皇に職務を任せている存在が国民だ>という論理であったとしても、「特定の誰か」が天皇に任せているわけではない。つまり、日本の国家元首は天皇なのです。ここで「大臣」という言葉を思い返してください。  「大臣」と言えばどこの国でも国王の臣下です。つまり、国王の職務を補佐するのが大臣であり、それら大臣の職務を総理する者を総理大臣と呼びます。つまり、大臣が元首であるということは原則としてありえません。  一方で「大統領「president」は元首から任命されるのではなく、もっぱら選挙によって国民から選ばれる国家元首です。要するに日本の国家元首は天皇であり、日本国憲法の第一条にはこう書いてあります。 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 私が公民の授業か何かでこのことを初めて耳にしたとき、私の心には違和感がありました。  一言で言えば、「天皇がいなくても日本は日本だ。」という意味の、支配者に対抗する

⓪ 7世紀の謎と推理ポイント

① 日本最初の女帝が推古天皇だったという日本書紀の記録がどうにも納得できない。厩戸皇子が摂政で皇太子であったということが不自然に思える。本当は、厩戸皇子(聖徳太子)は倭王だったのではないか。 ② 倭王ではなかったとされる山背大兄王が蘇我馬子に襲撃された事件について、日本書紀の取り上げ方が奇妙すぎる。実際は山背大兄王が倭王だったのではないか。そして、この事件のあと、用明天皇の血統の誰かが傀儡倭王として即位したのではないか。 ③ 日本書紀では斉明天皇が重祚したことになっているが、乙巳の変で弟の軽皇子に譲位したあとで再度王位についたことが不自然である。本当は、軽皇子は斉明天皇の兄だったのではないか。そして、乙巳の変のときに倭王だったのは、皇極女帝ではなく、別の誰かだったのではないか。 ④ 斉明天皇が鬼のようなものから祟られていると考えさえる記述が日本書紀にあるのはなぜか。蘇我氏や善光寺の言い伝えとも関係があるのではないか。 ⑤ 天皇号の開始には重大な政治的背景があったと思うが、最初に天皇号の使用を開始した人物が明確に特定されておらず、その過程が説明されていない。おそらくは天武天皇が最初ではないか。 ⑥ 中大兄皇子は大海皇子に4人の娘を嫁がせていること、大海皇子が壬申の乱において短期間に大義名分を得て反乱軍を組織できたこと、天武天皇の正当性が持統天皇によって否定されているように思えることなどが不自然です。天武天皇と天智天皇は父親が異なるのではないか。天武天皇は天智天皇よりも年上ではないか。 ⑦ 天武天皇の死後、持統天皇が即位したことが不自然である。よほど異常な状況でなければ、これだけ多くの王位継承者を押しのけて女帝が即位することはできない。持統天皇の即位の背景には重大な動機があり、持統天皇の血統の正当性を確立するために日本書紀が作られたのではないか。 ⑧ 斉明天皇の北九州出陣後の記録が日本書紀における神功皇后の活動と類似しているように思えるのはなぜか。神功皇后の子である応神天皇が九州から畿内に上陸して仲哀天皇の子を滅ぼしたことは、孝徳天皇と斉明天皇の関係に関連があるのではないか。 ⑨ 皇祖神である天照大神が女神である一方、その夫の須佐之男命が軽視されているのはなぜか。持統天皇の正当性を確立するためではないか。 ⑩ 伊勢神宮の成立事情が

① その倭王は男か女か

 出張で大阪に行ったとき、聖徳太子信仰の展覧会のチラシを目にして、フト、こんなことを考えました。 「信仰」とはつまり、聖徳太子には神秘的な要素があるということですが、聖徳太子は後世に仏教の擁護者として尊敬されただけでなく、奈良時代につくられた日本書紀の中ですでに神秘的な逸話が多数載せられています。なぜだろう。 厩戸皇子は後世に聖徳太子と呼ばれました。聖なる徳のある皇太子。 日本書紀によると、推古天皇の摂政であり、皇太子であったにすぎず、母方の実家である蘇我氏の支援で政治を行ったとされます。天皇ではない政治家が、立派な人物として神のごとく崇拝されるのには、なにか特殊な事情があるのではないか。 特に気になるのは、聖徳太子は本当に摂政だったのか?ということです。 「摂政」 君主に代わって政治を行う職 推古天皇は女性ですが、政治のすべてを聖徳太子に任せたというのは、聖徳太子がよほど優秀だったからだそうです。だったら聖徳太子がさっさと天皇になればいいのに。 皇太子ですから次の天皇になることが予定されていますし、推古天皇が即位したとき彼はすでに20歳になっています。 ちなみに、「天皇」という地位がこの時代にすでにあったという説が常識に近いようですが、私はそう考えておらず、その理由は後で触れます。この時期はまだ「日本」という国名はなく、倭国であり、倭国の最高指導者は天皇ではなく倭王であるという前提で話をすすめます。 推古天皇について、才色兼備だったこと以外ほとんどわからないということは、学者さん達も認めているようです。さらに重大な問題は、隋書という中国側の記録では、訪日した隋の使者は、<倭王には妻子がいる>、つまり男であると報告していることです。 これについて学者さん達は、使者に面会したのは聖徳太子であり、日本の君主は外交儀礼として使者には会わないから、使者が聖徳太子を倭王だと勘違いしたと考えているそうです。 しかし、魏志倭人伝では卑弥呼が邪馬台国の女王だったと記録されています。卑弥呼については人前に出ないで政治をしていたと記録されていますが、それでも卑弥呼が女性であることが中国側で記録されているのです。それより300年以上あとにやってきた隋の使者は魏の使者よりもニブい連中だったのか。 しかもその倭王は、隋の皇帝に対して対等外交をやってのけた危険人物でした。 東アジアの歴史におい

② 頓智外交

 教科書では厩戸皇子(聖徳太子)が摂政だったとされる西暦600年。倭王が中国隋の皇帝に使者を送りました。これを遣隋使とも言います。隋の皇帝が倭から来た使者に対し倭王の様子について尋ねたところ、使者はこんな説明をしたとか。 「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、座禅しながら政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」 それを聞いた高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。以上、WIKI PEDIAより さて。この意味がおわかりでしょうか? 高祖とは隋の皇帝ですが、とても不合理だから改めろと倭王に指示した。 何が不合理なの? 起床時間が早すぎること? 少なくとも、皇帝にはこのナゾナゾの意味がわかっていたと思われます。なぜなら、公式に「改善を訓令」するほどの重大事だと認識したのだから。 私の推理では、これはトンチみたいなものです。つまり、一休さんのごとく柔らかい頭で解釈する必要があります。 ヒントは、「天」です。倭王は「天が兄」なのだと言う。 「天皇」「天下」とかいう言葉があるように、権力者にとって「天」は非常に重要な概念です。そして、「天」において一番偉い存在とは何か。「偉い」ということは、たくさんの星々に囲まれた存在ですね。つまりその「天」は夜空。 夜空でもっとも偉い星とは? 前の記事   次の記事

③ オレ、東の天子

 天空の中でもっとも偉い星とは? 太陽ではありません。太陽は天空に一つしかないのです。「日」は弟なのですね。 さて、倭王(聖徳太子)は中国の皇帝に何を言いたかったのか。 夜空の星々は動いているが、星々の軌道の真ん中にあって動かない星がある。それを北極星といいます。つまり、星々は北極星を中心に回っているように見えます。 北極星は常に動かず、天空の中心にいる。だから皇帝をこの世界の中心とみなす中華思想において、北極星は皇帝権力の象徴なのです。そして倭王は「天が兄」である。つまり、中華秩序を尊重することを一応認めています。 しかし「倭王は日が上るまでに仕事を辞めるんです。」 これはある天体を意味しています。知らない人はいない、あの星。明け方に見えて、日が出ると消える「明星」。つまり金星。 金星は惑星だから北極星を中心とした軌道を取りません。倭王は金星である。だから皇帝の周りを規則正しく動いたりしない。 皇帝の顔を立ててお付き合いはするけど、倭国は独自の道を行くからね。 でも、隋帝国が本気が怒ると怖いから、公式伝達を避けてトンチにして中国側の反応を試したのだと私は推理します。それに気づいた皇帝は、「そんな主張は認めないぞ」という意味で「改めろ」とトンチに応じたのです。 で、それに対して倭王はどう反応したか。倭王はこんな手紙を皇帝に送りました。 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々 これをラップ調で現代語訳してみます。 オレ、東の天子。お前、西の天子。 メール送るぜ、最近元気かい~♪ これを読んだ皇帝はどんな気分だったでしょう。私だったら、こう思いますね。 「コイツ、いつかぶっ潰す。」 聖徳太子の外交手腕がうかがえます。そして、この外交方針はこのあとの倭国の運命に重大な影響を及ぼすことになるのです。 前の記事   次の記事

④ 聖徳太子時代の国際情勢

 ここで聖徳太子の時代の倭国の置かれた環境を眺めてみます。 聖徳太子が生まれた頃の倭国は半世紀前の「磐井の乱」の後は騒乱も少なく、倭王の権力は関東から九州北部にまで及んでいましたが、直接支配していたのは畿内周辺、つまり現在の奈良県、京都府、大阪府あたりまでだったと思います。 その他の地域には豪族が割拠していましたから、倭王は後の幕藩体制における将軍家のような立場で諸外国と外交していました。「諸外国」とは主に南北の中国王朝と朝鮮半島の3つの国、つまり北部の高句麗、南部の百済と新羅です。 半島の覇権を争う三国はそれぞれ倭国を味方につけようと必死で、倭国も半島南部に領地を持っていたところ、新羅の侵略を受けて欽明天皇の時代に手放してしまいました。これが教科書でいうところの任那日本府です。 欽明天皇(厩戸皇子の祖父)は任那(半島東南部)の再興を遺言して亡くなり、その後の新羅は基本的に倭国の敵でしたが、新羅はさまざまな外交努力で倭国との戦争を回避していました。一方、倭国は半島に軍事介入する熱意を徐々に失いつつあったようです。 倭国としては複雑な半島情勢に翻弄されるより、距離を置いて外交的に優位に立てばよいということでしょう。しかし西暦589年、東アジアの情勢を一変させる大事件が起きました。中国の北半分である隋によって南半分の陳という国が滅ぼされ、隋が中国を統一したのです。 歴代中国王朝は余力ができると領土拡張戦争を始めます。朝鮮半島も漢の時代には一時直轄領でしたから、隋が半島に勢力を拡大するに違いない。 しかも隋にとっては、脅威となる北方遊牧民を高句麗が支援することへの恐怖がありました。つまり隋は高句麗を滅ぼしたい。それを恐れる高句麗は百済と新羅を抑え込むために倭国と仲良くしておきたい。これが聖徳太子が二十歳になった頃の国際情勢でした。 高句麗が隋に滅ぼされたら、その次は百済と新羅が併合され、その次は倭国が危ない。隋に恭順したら倭国の独立は維持できるか。これが倭王にとって最大の政策課題ですが、どうでしょう。 隋と倭では国力だけでなく文明のレベルが違いすぎますから、半島が中国化されたら、西日本の豪族は中国になびくかもしれません。 当時の日本列島はいろんな言語を話す種族が雑居していて、まだ「日本人」が存在しないのです。 ほんの百年前には倭王自身が中華皇帝から将軍の称号をもらって喜ん

⑤ 仏教導入の裏側で

 倭国存続のため、聖徳太子は地方豪族から権力を奪って地方を直接統治する必要に迫られました。 ここで登場するのが仏教です。倭国では、古来から各地の氏族が祀る神がいて、特に祖先を重要な神として崇めていました。祖先を崇めることは、祖先から受け継いだ地方権力を維持または拡張させる欲求につながります。 祖先を祀る最大の祭祀場所が古墳です。 古墳時代ですから、地方民は地方権力の象徴である古墳を毎日眺めながら生活しているわけです。 この状況では中央集権化はすすみません。もし仏教を広めたらどうなるか。仏をこの世界における唯一絶対の存在としてしまえば、地方の神や祖先神を仏より格下の存在にすることができ、同時に倭王が仏教の擁護者として最上位の立場を確立できる。 そのためには圧倒的にきらびやかな寺院を立てて、その迫力を見せつけるのが一番。そこで聖徳太子は四天王寺など、地方豪族が真似できない巨大寺院を建設しました。 五重塔の荘厳さとその社会的機能に比べ、古墳は大きいだけでなんの役に立たない。神より仏にすがる方がより現実的で意味がある。 そんな価値観を社会全体に植え付ける必要がありました。 寺院の社会的機能とは?一つは文化の普及です。経典を読むには漢字、つまり外国語の学習が必要ですが、倭人の多くは字を知りませんからお経を読めません。寺院では経典を、つまり外国語を教えてくれるわけです。 明治時代に英語やフランス語を学んだ渋沢栄一みたいな人が政府高官になったのと同じで、低い身分でも最先端の知識を持った方が自然とエラくなりますから、外交権を独占して仏教導入を推進する倭王とその官僚達が徐々に優位に立ちます。 地方豪族は時代遅れのみじめな存在として、倭国の官僚たちにすがるしかなくなってゆき、やがて地方豪族の子弟が国営の寺院で官僚(仏僧)の指導のもと文字、さらには倭王を中心とした新国家主義を学ぶ羽目になります。 そんな状況で新興勢力である蘇我氏が台頭してきました。蘇我氏こそ仏教の先駆者であり、同時に中央集権国家成立の脚本家でありました。 そして聖徳太子は蘇我氏の血を受けた、蘇我氏が擁立した大王だったのです(私は聖徳太子が摂政ではなく倭王だったと想像しているので)。 しかし、こういった改革に反発する勢力もありました。その筆頭が物部氏です。蘇我氏を打倒しなければ、古い勢力は新興官僚勢力に地位と権力を奪われて

⑥ 恐怖の戦闘部族物部氏

 倭人が飽きもせず古墳づくりに汗を流していた時代。 西暦で460年頃、吉備の国の王が新羅と通じて反乱を起こしたとき、雄略天皇が物部の兵士30人を送って一族を皆殺しにしたと日本書紀にあります。 普通、こういうときは大軍を繰り出して城攻めするんじゃないかと思うんですが、たった30人で一国の支配者を一族ごと皆殺しって。。。 このとき派遣されたのが物部氏なのです。 「モノの部(べ)」の「モノ」はどんな意味でしょう。 「武士や兵士」を「もののふ」というのは、どう考えても「もののべ」が由来だと思うのです。 「物々しい」という形容詞には「堂々としている。重々しい。大げさな。」という意味がありますが、これは重武装している様子が語源だと思われます。 つまり、「モノ」は「武具」を意味するのです。 「部(べ)」とは、ある特殊な仕事を担当する集団を意味します。 現代でも野球部とかサッカー部といった使われ方をしますが、「モノの部」だったら「武具を専門的に扱う集団」となるでしょう。 物部氏は要するに、武具を生産し使う人たち、すなわち戦闘のプロとして倭王から認められた氏族ということです。 反乱大名をたった30人で殲滅する方法として、忍者のようにこっそりと暗殺したのか、それとも「物々しく」堂々と正面から攻撃したのか。 いずれにせよ、よほど卓越した武器生産技術と戦闘技能を持っていて、派遣された30人という数にはなにか合理的な意味がありそうです。 当時すでに倭国は半島で高句麗の騎馬軍と数万単位の戦力で戦った実績があるのですから、大軍を動員することもできました。 吉備氏は岡山あたりで倭王権を支えた有力氏族であり、吉備王の住居は武装した兵士によって日夜厳重に警戒されていたはずです。反乱を起こしたのなら、なおさら厳重に武装していたでしょう。 物部の兵士はそこにわずか30人で押し入って吉備王一族を全滅させる実力があったのです。最新の武器とその使い方を日夜研究し訓練を積んでいたでしょう。 布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という剣が天理市の石上神宮に祀られていますが、この神社は物部氏が管理した大和朝廷の武器庫でした。 物部氏の恐ろしさは倭人社会全体で知れ渡っていたでしょう。 倭王直属の特殊戦闘部隊であった物部氏は、九州で起きた磐井の乱や半島出兵に際しても倭軍の統率者として数万の軍勢を指揮することがありました。

⑦ 真実の7世紀を知ることの意味 日本書紀の謎を解くことは日本を知ることでもある

 長々と聖徳太子ばかり取り上げるのはなぜか? と思われるので、ちょっと横道にそれます。 一言で言えば、今日本が直面している情勢と7世紀の歴史は似ていると思うからです。 自然に根差した独自の社会があった日本列島に、激しい治乱興亡によって生み出された大陸の社会変革の波が及んできたのが弥生時代です。 やがて倭族の集団をまとめる親玉が中華皇帝から倭国王に任命される、いわゆる古墳時代へ移行しますが、この時代の中華王朝は南北に分裂していたので倭族にとって危険な存在ではありませんでした。 むしろ政治文化の面で王権の後ろ盾となってくれるありがたい存在でした。 しかし6世紀末に北方の隋が南朝を滅ぼして中華統一を成し遂げ、あまった国力を領土拡張に振り向け始めました。 盃を交わした兄貴分の組が敵対する組に滅ぼされてしまった。かといって、敵の組長と盃を交わす気分にはなれない。なにしろ、こっちの方が漢王朝の流れをくむ由緒正しい系統の組織なのです。 その変化を分析して未来を予想したごくわずかな倭人は、驚くべきことに、倭族の社会システムの変革を考えはじめました。 親分の組織が滅亡したことで、自分の道を模索する必要に迫られたのです。 まだネットもメディアもなく、人の移動に気が遠くなるほどの時間がかかる7世紀に、中華の政治情勢を分析して社会変革を立案し、独立した国家を夢見て実行しようとした人々がいた。 もちろん大多数は何も知らず、何も考えていない人々だから、変革に対して無意識に、しかし必死で抵抗します。 現代人でさえ、中華を巡って日本が直面している現実を他人事だと思っているけれど、1400年も前の時代にどうやって人の気持ちと社会の根本を変えられるというのか。 ウクライナ戦争だって、「脅すだけで侵攻はありえない」と言われてましたね。組織が体験したことのない危機にリーダーが備えようとしても、人々はついてこないのです。 その課題を乗り越え、たくさんの犠牲と苦難のはてに「日本という国家」が誕生した物語を <な・ぜ・か> 日本人は知りません。 10年間英語の授業を受けても英語を話せないのと同じく、この国で歴史の授業を受けても「日本とはなにか」という根本の部分さえ素通りしている。 しかし、歴史から学ぶという趣旨を思えば、今こそ日本誕生の謎を解き明かしたい。 そんな気分なので、私は中華が名付けた「倭」と、倭人が独