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邪馬台国が九州にあったとしか思えない根拠を解説

  邪馬台国論争について、最近は畿内説が有力だと聞いても、邪馬台国が畿内にあったとは私には思えないのですが、それについて考えを整理してみました。 一言で言うなら、魏志倭人伝における以下の話が事実であるなら、邪馬台国が畿内にあったはずがない。という説明になります。 ************* 女王国の南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。 ・・・・・ 正始八年(247)、帯方郡の太守が魏国の官に到着して報告した。 倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。 倭国では、載斯・烏越などを帯方郡におくり、たがいに攻撃する状況を説明した。 郡は塞の曹掾史の張政らをつかわして詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。 *************** 女王卑弥呼と狗奴国との間で戦争があったことが倭国から魏国に報告され、魏国は使者を送って互いに攻め込まないようさとした。 ということです。 さて。 もし卑弥呼の国、つまり女王国が畿内にあったとすると、狗奴国はその南の紀伊の国か、そうでなければ近畿より東の東海か北陸か、さらに遠くの関東あたりということになります。 この場合、女王国は九州から瀬戸内を経て畿内にまで及ぶ、つまり西日本のほぼ全域を支配する大勢力ということになります。 そんな女王国に対し紀伊の国の勢力が互角の戦いができるわけがない。女王国が紀伊の山中に攻め込んだら負けるかもしれませんが、紀伊から畿内に攻め込んでもし勝ったとしても、女王国は西国から兵力を動員して畿内を奪還するでしょう。 卑弥呼の政権が西日本の兵力を投入しても紀伊に勝てないほどの弱体政権であれば、女王国に属する西日本の地方勢力は女王国から離反してしまい、畿内に政権を維持することすらできない。 これは狗奴国が東海や北陸にあっても同じで、九州制圧後の豊臣秀吉に匹敵する勢力である女王国が、それより東に存在する狗奴国と戦って攻め込まれたあげく、恥を忍んでわざわざ魏国に使者を派遣してその恥ずかしい事実を報告して(要するに泣きついて)、困った魏国が倭国に使者を派遣して仲裁するなどということがありえるはずない。 このことは日本地図を見ながら想像してもらえば、細かく説明しなくともご理解いただけると思いま

㉙ 聖徳太子編あとがき

7世紀の歴史に不自然な点が多いのは、その典拠となる日本書紀に嘘が混じっているからです。だから日本書紀の真意を読み解かなければ真実に迫れません。 律令国家形成の青写真を作った厩戸王の功績は、倭王ではなかった摂政皇太子の功績として記録され、その王家の滅亡は蘇我氏の単独犯とされました。 厩戸王の霊が8世紀になって鎮魂対象となり聖徳太子信仰が生じたのは、持統王家の血統が断絶の危機に瀕した原因が厩戸王家の祟りではないかという罪の記憶がよみがえったもの。 日本書紀は持統天皇を軸とする天皇家の権威を確立するために藤原氏が作らせたものですが、7世紀の歴史の真実を振り返ったからこそ芽生える罪の意識です。 その視点に東アジア情勢を加味して分析すれば本当の歴史が見えてくるのではないか。と考えて7世紀を私なりに構築してみました。 激動の国際情勢に翻弄されながら権力をめぐって激しい闘争が繰り返された7世紀。 聖徳太子の子孫は法隆寺で一族妻子そろって自害して果て、乙巳の変では蘇我本家も同じ結末を迎えました。 孝徳天皇の後継者は中大兄皇子によって滅ぼされ、その母である斉明女帝は怨念にさいなまれて最後を迎えました。 持統天皇の母は父親を夫に殺され、切り刻まれて塩漬けにされた親の死体を目にしたかもしれません。 倭国は唐帝国に敗北して膨大な戦死者を出し、続く壬申の乱では持統天皇の夫が父の政権に対して反乱を起こしてこれを滅ぼしました。 その歴史を受け継いだ大海人皇子の妻が何を考え何をしたか。 その苦労の末に出来上がった日本という国のかたちを私達はもう少し真剣に考えた方がよいと思いました。 前の記事  次の記事

㉘ この国のかたち

 天皇は戦いにも政治にも関わらずただひたすら神聖な存在であり、政治は官僚組織に任せればいい。 悪い意味でもこの「かたち」は現代に生きています。官僚組織がおかしくなったら、この国は根底から傾くということです。 天皇制は1300年以上にわたって存続し、日本の政治の安定に寄与しました。 天皇という存在が他国の元首に比べてなんとなく女性的な雰囲気を感じさせるのは、創始者が女帝であったことが神話を通じて強く影響したと思います。 私は中学生だったとき公民の授業で、<天皇は日本国民の統合の象徴>と定めている憲法の条文を見て違和感を覚えました。 日本人は天皇がいなくても日本人だ。天皇とは関係がない。となんとなく反発していたのです。でも今は、日本と天皇は誕生以来、一体不可分の存在として1300年以上の歴史を歩んできたと認識しています。 天武天皇のあと、たくさんの皇位継承候補を押しのけて持統女帝が強引に即位し、天皇家の皇位継承ルールを定めました。 その試みに失敗していたら、その後も権力闘争が続き、現代の日本社会は別の性格を持っていたかもしれません。 暴力や恐怖によらないでその神聖権威を確立するため日本書紀が編纂されました。そこに登場する最高女神は、夫からDVを受けて岩倉に身を隠すような地味な神様でした。 中華においては、政治権力を握るためには皇帝を打倒しなければならないので、定期的に王朝交代が繰り返され、そのたびに戦乱が起き、流民が発生して人口が半減するほどの犠牲を生みます。 その繰り返しによって中華がどれほど多くのものを失って今に至ったかは、日本人だからこそ理解できると思うのです。 天皇が身の危険を感じて厳重な警備を置く必要もなく、戦国時代には御所の壁が崩れて中の暮らしが庶民から丸見えのままで過ごしていました。 天明の飢饉のとき、天皇のご利益にすがって飢饉を乗り切ろうと7万人の民衆が集まり、その民衆に後桜町上皇が3万個のリンゴを配ったそうです。 天皇と国民のこのような関係がこれほど長期にわたって存続したことは世界史において珍しい現象だと思います。 日本は7世紀の後半、倭国の存立の危機の中で、周辺部族を政治的に統合して成立しました。 日本という民族と天皇は同じ目的でほぼ同時に成立したのですから、天皇はまさに日本を象徴する存在です。 これは私が右であろうと左であろうと動かない事実なので、

㉗ 神話と天皇 ~ アマテラスとスサノオの関係

天照大神は皇室の祖先神として最も重要な存在として伊勢神宮で祀られていますが、夫がないと子孫が生まれません。 では夫は誰かというと、須佐之男命という神ということになります。  日本書紀が語る神話の世界において、皇室の祖先神として女神を崇める一方で、夫である須佐之男命を軽視するのはなぜか。   天皇家は「男系男子」が基本原則なのですから常識的に考えれば祖先神も男性であるはず。   しかし、神話における創始者は女神であり、その夫は罪人として追放されるのです。  結論を言えば、 日本書紀の国生み神話は、持統天皇と天武天皇の政治的関係を神話で表現する試みでした。   持統天皇が夫より格上であることを正当化するために天照女神を高天原の高貴な支配者とし、夫の須佐之男命をヤンチャで迷惑だから高天原から追放された神と設定したのです。   つまり神話における天照女神は持統天皇であり須佐之男命は天武天皇なのです。   天武天皇の子孫には持統天皇と血縁関係のない皇族がたくさんいましたが、持統王朝の血統原理にとって邪魔になる長屋王のような危険な存在は無実の罪を着せられ抹殺されました。   国譲り神話では、天照大神が出雲に建御雷神(タケミカヅチ)を派遣し、大国主に国を譲らせます。   大国主は須佐之男命の子孫であり、建御雷神は藤原氏(中臣氏)の祖先神です。つまり、持統女帝が藤原に命じて、天武の子孫である大国主命(長屋王)から国を奪ったという構図です。   このような事情により、伊勢神宮では天照女神をこの世の支配者として祀り、出雲大社では天武帝の子孫である大国主命を黄泉の国の支配者として祀りました。   なお、出雲大社の主祭神は現在では大国主命とされていますが、ある時期までは須佐之男命が祀られていたという説があります。   こうして秘密のシナリオを神話を通じて徐々に世間に認識させることに成功し、いつの間にか、日本書紀に書いてあることが歴史的事実であるかのように信じさせることに成功しました。   ようやく<この国のかたち>が見えてきました。 前の記事   次の記事

㉖ 天皇家の血統原理の確立 なぜ父でなく母なのか

 天武天皇には妻子がたくさんいました。つまり、皇位継承候補がたくさんいたのです。   天武帝の死後、妻の一人に過ぎない鸕野讚良が自分の子孫を未来永劫天皇にするためには、天皇となる資格が<天武天皇の子孫>ではなく自分、つまり<鸕野讚良の子孫>だということにしなければなりません。  だとすると、天武天皇の死後、我が子である草壁皇子が天皇になってしまうと困ります。 鸕野讚良が天皇になる機会がないまま、次の世代へ皇位が移ってしまったら、自分を原点とする天皇の血統原理が確立されないからです。   「鸕野讚良天皇の子孫であること」を天皇の資格にするためには、自分の子孫よりも先に自分が天皇になっておかなければなりません。  そして実際に草壁皇子は、ほどよい年齢にも関わらず天皇に即位しないまま亡くなり、持統天皇が即位しました。私は草壁皇子が暗殺されたか、又は皇位にはついたがその記録を消されたと疑っています。   こうして、たくさんの皇位継承候補が存在したにも関わらず鸕野讚良が即位して持統天皇となりました。 天武天皇は生前に皇位継承者を決めていたはずですが、持統天皇が即位することを承知していたかどうかはわかりません。 ともあれ、持統天皇が天皇となり、その後を草壁皇子の子、つまり鸕野讚良の孫に譲れば、天皇家は鸕野讚良の子孫だけが継承するという血統原理を主張しうる状況になりますが、「天武天皇の子孫が天皇」という原理もまだ成立しうる状態です。   ですので、日本書紀によって天武天皇の正当性を薄めつつ持統天皇の正当性を強調する必要があります。   天皇家の家系は男系で世襲されなければならないのに、皇室の祖先神の最高位に立つ天照大神がなぜ女神、つまり母なのか。母がいるなら父もいるはずですが、「祖先神たる父」のことを知っている日本人がどれほどいるでしょう。 このあたりのことを疑問視する話をついぞ耳にしたことがないのですが、どういうことでしょう。 前の記事   次の記事

㉕ 藤原不比等と日本書紀

 中臣鎌足は乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我氏を打倒し、その後も天智天皇を陰で支え続けた国家の元勲として日本書紀に記録されます。   私が想像する鎌足は、百済語がペラペラで半島と倭国の裏事情に通じた人。その実態は百済の手先でした。倭国にはその昔からたくさんの渡来人がいて政策に関与していましたが、その中には外国に通じた者も少なからずいたはずです。   百済の滅亡後は百済人官僚を率いて律令国家の整備に尽力し、倭国の陰の実力者になりますが、鎌足の死の 3 年後に壬申の乱が起きます。   鎌足には「史人(ふひと)」という子がいて、壬申の乱のときには少年だったので、政治的迫害を避けることができましたが、天武政権で出世の見込みはなかったでしょう。   しかし、持統女帝から目をかけられて徐々に昇進し、やがて持統女帝を血統の源泉とする天皇制の確立を目指して歴史編纂事業を推進しました。  こうして元明天皇の時代に完成したとされる日本書紀は神話の時代から持統天皇までの歴史を記録した史書ですが、その内容は国を作った神々から天照大神を経て持統天皇に至るまでの血統が、一筋の糸でつながっていたことを説明する物語となっています。  用明王家が倭王であったことの痕跡を消すために、推古女帝や舒明天皇を作り出し、実際の倭王だった厩戸皇子を摂政皇太子に変え、夫の天武天皇は天智天皇の同腹の弟、つまり敏達王家の血統であったことにした。 用明王家と敏達王家との間の王権の奪い合いが歴史上存在しなかったことにしたのです。 こういうことを主張してもトンデモ説としての扱いを受けるでしょうが、日本書紀に書いてあることを反証がない限り正しいと信じるのは宗教的情熱と似たようなものです。 現代の新聞報道でさえ政治的な偏向が見受けられるのに、国家創生期の政府報道に嘘がないわけがないのです。編纂期のたかが100年前、50年前、はたまたその当時のことでさえ嘘がありえます。かといって、すべてが嘘であっては成り立たないのも事実ですから、物証がなくても妄想していく必要があると考えています。 さて、藤原不比等らの努力によって、天皇たる資格は「実力」ではなく「血統のみ」というルールを確立しましたが、創始者が女性であったことと、藤原氏がセットになっていることが「この国のかたち」の重大な特徴となりました。 前の記事

㉔ 新王朝を生んだ女帝

 低い身分から唐の高宗の皇后に登りつめた武照という女性は、絶世の美女だったうえにあふれる才知と決断力と野心を兼ね備えていました。   その生涯を語るには字数が足りないので、気になる方はぜひネットで調べてみて下さい。スゴイ人です。  高宗は気弱な皇帝だったらしく、政治を妻である武照に任せっきりになりました。百済復興戦争で倭軍が半島に出兵したとき、唐軍の戦略を統括したのは武照だったようで。   武照は天智天武天皇とほぼ同年代です。武照は出世のために邪魔となるたくさんの皇族や貴族を粛清しましたが、代わりに低い身分の中から有能な人材を抜擢する才能がありました。   この女帝の時代に唐は隆盛を誇ったのです。そして唐の実権は皇室である李氏から、武照の出身氏族である武氏に移りました。  父(天智天皇)の野望を打ち砕いた中華帝国の本当の実力者が女性であり、その女性が新しい王朝の創始者になるであろうことを鸕野讚良は気づいていたでしょう。   武照が唐に代わって新王朝を創始するのなら、自分も東の女帝として日本に新王朝を創始して何が悪い。  ということで、天武天皇の死後、我が子である草壁皇子が即位前に死んだ後の 690 年、ライバル(大津皇子)の粛清を終えて鸕野讚良は天皇に即位し、さらに孫である軽皇子(のちの文武天皇)を皇太子にしたと書紀は伝えます。これが持統天皇です。 同じ年、武照も皇帝に即位して周王朝を開始しました。これが事実なら、妙に息の合った二人です。互いにその存在をどの程度知っていたのか、とても気になります。   持統天皇の即位も、その孫を皇太子にすえるのも、武照と同様に反対派を黙らせてようやく実現できたことです。つまり、強引すぎました。何か工夫をしなければなりません。   余談ですが、私は持統天皇の即位についても疑いを持っていますが、それは別の機会に触れます。 前の記事   次の記事

㉓ 天武天皇のあとを継いた妻

 大海人皇子(天武天皇)は庶民生活になじみがあり、女好きの博打好きで天文遁甲に秀でていたうえ槍の使い手だったと記録されます。   天文は道教にもとづく吉凶占いや神秘思想みたいなもの。遁甲は仙人が使う忍術みたいな特殊技能のこと。   つまり天武天皇は不思議な特殊技能を身につけ武勇にも秀でた風変わりな天皇であり、日本書紀では現人神として扱っています。  私は大海皇子の父が舒明天皇ではなく用明王家の血を引く高向王だったと推測していますが、乙巳の変後、用明王家の生き残りは命を狙われるということで、母(斉明女帝)の庇護で東国で隠遁していたと推測します。   そこで地元の豪族や庶民と交わり、天文や遁甲の術を身につけながら政治にはかかわらない男。危険人物ですから、中大兄皇子(天智天皇)は娘を 4 人も大海皇子に嫁がせました。これは監視、つまりスパイ活動の意味もあったかと思います。   そのうちの一人に鸕野讚良(うののささら)という女性がいました。この女性と大海皇子との間に草壁皇子が生まれます。   一方、天智天皇には大友皇子という後継者がいますが、この人の母親は采女という低い身分の出身だったと記録されます。   この時代までの倭王は王族か、蘇我氏のような実力者を妻にしますが、天智天皇は妻の実家が権力を握ることを恐れてか、采女(うねめ)のような身分の低い女性の子を跡継ぎにしました。  なにしろこの時期の中国では、皇帝の妻が皇室を事実上乗っ取るという異常事態になっていましたから、実力のある家柄を出身とする女性を妻にしない方が得策と考えたかもしれません。   しかし鸕野讚良にしてみると、正当な倭王家の血を継ぐ我が子が、采女の子である大友皇子に臣下として仕えることに不満を持ったかもしれません。  実家のためのスパイだったはずが、皮肉にも壬申の乱では、実家を打倒する夫を陰から支える結果となってしまいました。  だからといって彼女は天武王朝の永続を望んでいたわけではなかったのです。 今後続いてゆく天皇家の始祖は夫でいいのか。いや、二つの王家の因縁の争いを終わらせるためには自分が天皇家の血統の原点となるべきだ。そのためにはどうにかして夫の家系から権力を奪わなければならない。 彼女がこんなだいそれたことを考えたのには、唐王朝の乗っ取りに成功した

㉒ 天武王朝の開始

壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位して天皇となりました。 この天武天皇が史上最初の天皇であった可能性は高いと思います。 なお、天武天皇以前の天皇の漢風諡号(中国風のおくり名)は奈良時代後期に作られたものと言われています。   この新政権は反百済、反唐であり、ここまでの成り行き上、親新羅政権となります。 壬申の乱の黒幕として新羅が関わっている可能性を感じます。   新羅にしてみれば、倭国が唐につくかどうかは国の存亡に直結しますから、反百済勢力の希望の星であった大海人皇子を保護しつつ反乱を誘発するスパイ活動があって当然です。   天智天皇が死去する一年前、新羅人の道行という僧が三種の神器の一つである草薙の剣を熱田神宮から盗んで新羅に脱出しようとして失敗した事件が起きましたが、これも新羅のスパイ活動と疑えますし、新羅が天智天皇の死に関与した可能性もあります。   一方で百済人官僚は新政権における影響力を失ったばかりか、祖国復興も幻と消えました。 乙巳の変以来、王権の影の実力者として君臨していた中臣鎌足はすでに亡く、天武政権は官僚に代わって天皇の親族が重職を担う体制となったのです。 その後、新羅は半島統一に成功、形式上は唐に服属することで唐との和平を実現し、長きにわたった半島の戦乱は終結しました。 新羅が半島で独立を維持している限り、倭国は唐の脅威におびえる必要がないのです。 天武天皇が若かった時に、蘇我氏の傀儡倭王だったか、または傀儡倭王と同じ父を持つ弟だったか。   いろいろな可能性がありますが、天武天皇は特殊な個性とカリスマを持った人物であったに違いありません。   反乱に際して得た幅広い層からの支持と、激しい戦いを制したその実力を用いて、中央集権化を一気に推し進めました。 既得権益にしがみつく豪族層を郡司という地方名誉職に任じる一方で、地方豪族を支えていた有能な人材を官僚化しました。 豪族の私有地や私有民は国家が管理することになりましたが、これは明治維新後の版籍奉還に似たものと想像しています。 律令を実施するためには政府の役人が居住できる機能をもった恒久的な首都をつくる必要があります。そのため飛鳥に巨大な都城の建設を開始しました。これが後に藤原京と呼ばれるようになります。 急速に天皇への権力集中が進んでゆき

㉑ 古代史最大の兵乱 ~ 壬申の乱

 669年と671年、唐の郭務宗らが2000の唐兵を率いて北九州に上陸し、捕虜を返還したと日本書紀にありますが、当時の2000人はかなりの大軍です。 さて、これをどう解釈したものでしょう。我が国で外国軍隊の進駐を受けたのは、マッカーサーの時とこの時の二回だけです。 倭国は唐に従属する代わりに唐軍の進駐を受け入れ、見返りに捕虜の返還を受けたと思われます。 続いて倭唐安全保障条約に基づいて新羅に出兵することになるでしょうが、このタイミングで中大兄皇子(諡号:天智天皇)が死去しました。 日本書紀では病死とされますが、扶桑略記という平安時代の記録によると天智天皇は山階(やましな)というところで遠乗り(馬で散歩)していた際に暗殺されたことをにおわせています。 いずれにせよ中大兄皇子の子の大友皇子が跡を継ぎましたが、ここで大海人皇子が吉野で挙兵したのです。 大海人皇子は日本書紀によれば中大兄皇子の同腹の弟と記録されていますが、これを疑う説が多数あることを忘れないでおいてください。 中大兄皇子の死が672年1月、唐軍の撤収が同年5月、大海人皇子の挙兵が同年6月と記録されます。 挙兵の理由について教科書では「皇位継承争い」と説明されますが、そんな理由で天下を二分する大反乱を起こせるものでしょうか。 大海人皇子を支持する勢力がどのような存在で、なぜ支持をしたかが歴史上明らかではありませんが、これを解明することは日本成立の謎を解くカギとなるでしょう。 ここで参考となるのは明治維新の時代です。徳川幕府は国防のために集権化と近代化を目指して様々な改革に取り組みましたが、結局滅亡したのはなぜか。言い換えれば、反幕府勢力はなぜ幕府を滅ぼしたのか。 簡単に言うと、<幕府に任せておいてもムダ。>ということに人々が気が付いたからでしょう。それが決定的となったのは、おそらく第二次長州征伐のあたりです。 幕府軍が弱いということが明らかになってしまったことで、幕府には国を変える意思も実力もないと証明されてしまったことから、幕府の未来に誰も期待しなくなってしまった。 本当に強い国になるためには天皇のもとで有能な人材が協力し合って体制を根本から改めなければならないから新しい政府を作る必要があった。 さて。これと似たような現象が仮に7世紀で起きていたとしたらどうでしょう。 倭国の連合軍が白村江で大敗した時、倭人

善光寺の謎 7世紀の謎を解くカギとなる斉明天皇の秘密

善光寺は日本最古の秘仏とされる阿弥陀如来像があり、日本有数の古さを誇る寺ですが、歴史的に謎が多い寺です。 日本書紀によると、その阿弥陀如来像は6世紀に蘇我氏の庇護によって百済から日本へ仏教が伝えられたときにもたらされたものですが、その後、疫病が流行したとか。 当時、蘇我氏と対立する物部氏は、仏教のせいで神々が怒ったのだと主張して仏教を弾圧し、蘇我氏が祀っていた仏像を無理やりに難波の堀江へ捨ててしまいました。 それを拾って信濃の国に持ち帰ったのが本田善光、つまり善光寺の創設者とされる人物です。 蘇我氏が保管していた仏像をたまたま本田善光が拾ったという不思議な話。 善光寺は蘇我氏と関係があるような気がしてくるわけです。 善光寺に伝えられる善光寺縁起には不思議な伝承があります。 本田善光には善佐という息子がいて早死にしたのですが、阿弥陀如来の力で善佐はあの世から現世へ戻ることができました。 その戻る道中で、地獄へ連れていかれる皇極天皇を見かけたというのです。 皇極天皇は中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター(645年乙巳の変)によって蘇我入鹿が暗殺された際に、殺害現場に居合わせたとされる女性天皇です。 皇極天皇が地獄へゆく話。 本田善光と蘇我氏との妙な関係。 さらに不思議なのは、善光寺の拝殿の配列ですが、秘仏でありご本尊である阿弥陀如来は参拝者からみて左側、つまり脇の方の瑠璃壇の奥にあって、中央には御三卿と言われる本田善光とその妻、そして善佐の像が安置されています。 阿弥陀如来でなく本田一族が本尊であるかのように思えてくるのです。 私は善光寺が蘇我氏の祟り封じのための寺ではないかと疑っているところです。 それでは、斉明天皇はなぜ祟られたのか。元の名で宝女王(たからのひめみこ)は二度天皇になった(重祚とかいう)古代史上とても重要な存在です。 日本書紀によれば、有名な乙巳の変(645年)は一度目の在位中(皇極天皇)に発生し、彼女の目前で蘇我入鹿が中大兄王子(後の天智天皇)に殺害され、皇極天皇はその直後に退位。 その後継として擁立された弟の孝徳天皇が崩御すると、再び斉明天皇として即位したと日本書紀はいいます。 さらに斉明天皇は滅亡した百済の復興のため朝鮮半島に軍隊を派遣しようとしましたが、斉明天皇が北九州に司令部を置いたときの奇怪な記録が日本書紀にあります。 「そのとき、朝倉山の

斉明天皇が祟られた理由を分析

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 斉明天皇は日本書紀の謎を解くうえで重要な、そして複雑怪奇な人物です。以下に日本書紀からわかるプロフィールを記します。(ウィキペディアより) ********************* 諱(いみな) 宝(たから) 女性  西暦594年生まれ 661年死去 皇極天皇在位期間:642年2月19日 - 645年7月12日 斉明天皇在位期間:655年2月14日 - 661年8月24日 和風諡号:天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 父親 茅渟王 母親 吉備姫王 配偶者  一度目:高向王(用明天皇孫)   二度目:舒明天皇(敏達天皇の孫) 子女 漢皇子   天智天皇  間人皇女  天武天皇   皇居 皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮 ************** ◎日本書紀での人生の流れ 倭王一族(敏達天皇の曾孫)として誕生(594年) 高向王と結婚し漢皇子を生む 高向王死去 田村皇子と結婚 中大兄皇子を出産(626年) 大海皇子を出産(生年不詳) 夫である舒明天皇即位(629年) 舒明天皇死去(641年) 皇極天皇として即位(642年) 山背大兄王(厩戸皇子の子)が蘇我氏の襲撃を受け滅亡(643年12月30日) 乙巳の変 蘇我本家滅亡 兄である軽皇子に譲位して孝徳天皇即位(645年) 孝徳天皇死去(654年) 斉明天皇として再度即位(655年) 蝦夷平定 百済滅亡(660年) 筑紫の朝倉の宮へ出陣 斉明天皇死去(661年) 白村江の戦い(663年) ******************** 日本書紀系図はクリックすると拡大して開きます <斉明天皇に関する謎> ①高向王と結婚したあと田村皇子と再婚しているが、再婚相手が天皇の最有力候補で、しかも子連れで結婚したとしたら、こういうことはありうるのか。 ②初婚相手である高向王の父親が不明なのはなぜか。 ③最初に出産した漢皇子についてなんの記録もないのはなぜか。 ④皇極女帝として在位中に山背大兄王が蘇我氏によって滅ぼされたとされるが、皇極女帝にとって山背大兄王が邪魔だったのか。この滅亡にどう関与したのか。皇極女帝は蘇我氏の傀儡だったから関与しなかったのか。 ⑤宝姫が乙巳の変を事前に知ら