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㉙ 聖徳太子編あとがき

7世紀の歴史に不自然な点が多いのは、その典拠となる日本書紀に嘘が混じっているからです。だから日本書紀の真意を読み解かなければ真実に迫れません。 律令国家形成の青写真を作った厩戸王の功績は、倭王ではなかった摂政皇太子の功績として記録され、その王家の滅亡は蘇我氏の単独犯とされました。 厩戸王の霊が8世紀になって鎮魂対象となり聖徳太子信仰が生じたのは、持統王家の血統が断絶の危機に瀕した原因が厩戸王家の祟りではないかという罪の記憶がよみがえったもの。 日本書紀は持統天皇を軸とする天皇家の権威を確立するために藤原氏が作らせたものですが、7世紀の歴史の真実を振り返ったからこそ芽生える罪の意識です。 その視点に東アジア情勢を加味して分析すれば本当の歴史が見えてくるのではないか。と考えて7世紀を私なりに構築してみました。 激動の国際情勢に翻弄されながら権力をめぐって激しい闘争が繰り返された7世紀。 聖徳太子の子孫は法隆寺で一族妻子そろって自害して果て、乙巳の変では蘇我本家も同じ結末を迎えました。 孝徳天皇の後継者は中大兄皇子によって滅ぼされ、その母である斉明女帝は怨念にさいなまれて最後を迎えました。 持統天皇の母は父親を夫に殺され、切り刻まれて塩漬けにされた親の死体を目にしたかもしれません。 倭国は唐帝国に敗北して膨大な戦死者を出し、続く壬申の乱では持統天皇の夫が父の政権に対して反乱を起こしてこれを滅ぼしました。 その歴史を受け継いだ大海人皇子の妻が何を考え何をしたか。 その苦労の末に出来上がった日本という国のかたちを私達はもう少し真剣に考えた方がよいと思いました。 前の記事  次の記事

㉘ この国のかたち

 天皇は戦いにも政治にも関わらずただひたすら神聖な存在であり、政治は官僚組織に任せればいい。 悪い意味でもこの「かたち」は現代に生きています。官僚組織がおかしくなったら、この国は根底から傾くということです。 天皇制は1300年以上にわたって存続し、日本の政治の安定に寄与しました。 天皇という存在が他国の元首に比べてなんとなく女性的な雰囲気を感じさせるのは、創始者が女帝であったことが神話を通じて強く影響したと思います。 私は中学生だったとき公民の授業で、<天皇は日本国民の統合の象徴>と定めている憲法の条文を見て違和感を覚えました。 日本人は天皇がいなくても日本人だ。天皇とは関係がない。となんとなく反発していたのです。でも今は、日本と天皇は誕生以来、一体不可分の存在として1300年以上の歴史を歩んできたと認識しています。 天武天皇のあと、たくさんの皇位継承候補を押しのけて持統女帝が強引に即位し、天皇家の皇位継承ルールを定めました。 その試みに失敗していたら、その後も権力闘争が続き、現代の日本社会は別の性格を持っていたかもしれません。 暴力や恐怖によらないでその神聖権威を確立するため日本書紀が編纂されました。そこに登場する最高女神は、夫からDVを受けて岩倉に身を隠すような地味な神様でした。 中華においては、政治権力を握るためには皇帝を打倒しなければならないので、定期的に王朝交代が繰り返され、そのたびに戦乱が起き、流民が発生して人口が半減するほどの犠牲を生みます。 その繰り返しによって中華がどれほど多くのものを失って今に至ったかは、日本人だからこそ理解できると思うのです。 天皇が身の危険を感じて厳重な警備を置く必要もなく、戦国時代には御所の壁が崩れて中の暮らしが庶民から丸見えのままで過ごしていました。 天明の飢饉のとき、天皇のご利益にすがって飢饉を乗り切ろうと7万人の民衆が集まり、その民衆に後桜町上皇が3万個のリンゴを配ったそうです。 天皇と国民のこのような関係がこれほど長期にわたって存続したことは世界史において珍しい現象だと思います。 日本は7世紀の後半、倭国の存立の危機の中で、周辺部族を政治的に統合して成立しました。 日本という民族と天皇は同じ目的でほぼ同時に成立したのですから、天皇はまさに日本を象徴する存在です。 これは私が右であろうと左であろうと動かない事実なので、

㉗ 神話と天皇 ~ アマテラスとスサノオの関係

天照大神は皇室の祖先神として最も重要な存在として伊勢神宮で祀られていますが、夫がないと子孫が生まれません。 では夫は誰かというと、須佐之男命という神ということになります。  日本書紀が語る神話の世界において、皇室の祖先神として女神を崇める一方で、夫である須佐之男命を軽視するのはなぜか。   天皇家は「男系男子」が基本原則なのですから常識的に考えれば祖先神も男性であるはず。   しかし、神話における創始者は女神であり、その夫は罪人として追放されるのです。  結論を言えば、 日本書紀の国生み神話は、持統天皇と天武天皇の政治的関係を神話で表現する試みでした。   持統天皇が夫より格上であることを正当化するために天照女神を高天原の高貴な支配者とし、夫の須佐之男命をヤンチャで迷惑だから高天原から追放された神と設定したのです。   つまり神話における天照女神は持統天皇であり須佐之男命は天武天皇なのです。   天武天皇の子孫には持統天皇と血縁関係のない皇族がたくさんいましたが、持統王朝の血統原理にとって邪魔になる長屋王のような危険な存在は無実の罪を着せられ抹殺されました。   国譲り神話では、天照大神が出雲に建御雷神(タケミカヅチ)を派遣し、大国主に国を譲らせます。   大国主は須佐之男命の子孫であり、建御雷神は藤原氏(中臣氏)の祖先神です。つまり、持統女帝が藤原に命じて、天武の子孫である大国主命(長屋王)から国を奪ったという構図です。   このような事情により、伊勢神宮では天照女神をこの世の支配者として祀り、出雲大社では天武帝の子孫である大国主命を黄泉の国の支配者として祀りました。   なお、出雲大社の主祭神は現在では大国主命とされていますが、ある時期までは須佐之男命が祀られていたという説があります。   こうして秘密のシナリオを神話を通じて徐々に世間に認識させることに成功し、いつの間にか、日本書紀に書いてあることが歴史的事実であるかのように信じさせることに成功しました。   ようやく<この国のかたち>が見えてきました。 前の記事   次の記事

㉖ 天皇家の血統原理の確立 なぜ父でなく母なのか

 天武天皇には妻子がたくさんいました。つまり、皇位継承候補がたくさんいたのです。   天武帝の死後、妻の一人に過ぎない鸕野讚良が自分の子孫を未来永劫天皇にするためには、天皇となる資格が<天武天皇の子孫>ではなく自分、つまり<鸕野讚良の子孫>だということにしなければなりません。  だとすると、天武天皇の死後、我が子である草壁皇子が天皇になってしまうと困ります。 鸕野讚良が天皇になる機会がないまま、次の世代へ皇位が移ってしまったら、自分を原点とする天皇の血統原理が確立されないからです。   「鸕野讚良天皇の子孫であること」を天皇の資格にするためには、自分の子孫よりも先に自分が天皇になっておかなければなりません。  そして実際に草壁皇子は、ほどよい年齢にも関わらず天皇に即位しないまま亡くなり、持統天皇が即位しました。私は草壁皇子が暗殺されたか、又は皇位にはついたがその記録を消されたと疑っています。   こうして、たくさんの皇位継承候補が存在したにも関わらず鸕野讚良が即位して持統天皇となりました。 天武天皇は生前に皇位継承者を決めていたはずですが、持統天皇が即位することを承知していたかどうかはわかりません。 ともあれ、持統天皇が天皇となり、その後を草壁皇子の子、つまり鸕野讚良の孫に譲れば、天皇家は鸕野讚良の子孫だけが継承するという血統原理を主張しうる状況になりますが、「天武天皇の子孫が天皇」という原理もまだ成立しうる状態です。   ですので、日本書紀によって天武天皇の正当性を薄めつつ持統天皇の正当性を強調する必要があります。   天皇家の家系は男系で世襲されなければならないのに、皇室の祖先神の最高位に立つ天照大神がなぜ女神、つまり母なのか。母がいるなら父もいるはずですが、「祖先神たる父」のことを知っている日本人がどれほどいるでしょう。 このあたりのことを疑問視する話をついぞ耳にしたことがないのですが、どういうことでしょう。 前の記事   次の記事

㉕ 藤原不比等と日本書紀

 中臣鎌足は乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我氏を打倒し、その後も天智天皇を陰で支え続けた国家の元勲として日本書紀に記録されます。   私が想像する鎌足は、百済語がペラペラで半島と倭国の裏事情に通じた人。その実態は百済の手先でした。倭国にはその昔からたくさんの渡来人がいて政策に関与していましたが、その中には外国に通じた者も少なからずいたはずです。   百済の滅亡後は百済人官僚を率いて律令国家の整備に尽力し、倭国の陰の実力者になりますが、鎌足の死の 3 年後に壬申の乱が起きます。   鎌足には「史人(ふひと)」という子がいて、壬申の乱のときには少年だったので、政治的迫害を避けることができましたが、天武政権で出世の見込みはなかったでしょう。   しかし、持統女帝から目をかけられて徐々に昇進し、やがて持統女帝を血統の源泉とする天皇制の確立を目指して歴史編纂事業を推進しました。  こうして元明天皇の時代に完成したとされる日本書紀は神話の時代から持統天皇までの歴史を記録した史書ですが、その内容は国を作った神々から天照大神を経て持統天皇に至るまでの血統が、一筋の糸でつながっていたことを説明する物語となっています。  用明王家が倭王であったことの痕跡を消すために、推古女帝や舒明天皇を作り出し、実際の倭王だった厩戸皇子を摂政皇太子に変え、夫の天武天皇は天智天皇の同腹の弟、つまり敏達王家の血統であったことにした。 用明王家と敏達王家との間の王権の奪い合いが歴史上存在しなかったことにしたのです。 こういうことを主張してもトンデモ説としての扱いを受けるでしょうが、日本書紀に書いてあることを反証がない限り正しいと信じるのは宗教的情熱と似たようなものです。 現代の新聞報道でさえ政治的な偏向が見受けられるのに、国家創生期の政府報道に嘘がないわけがないのです。編纂期のたかが100年前、50年前、はたまたその当時のことでさえ嘘がありえます。かといって、すべてが嘘であっては成り立たないのも事実ですから、物証がなくても妄想していく必要があると考えています。 さて、藤原不比等らの努力によって、天皇たる資格は「実力」ではなく「血統のみ」というルールを確立しましたが、創始者が女性であったことと、藤原氏がセットになっていることが「この国のかたち」の重大な特徴となりました。 前の記事

㉔ 新王朝を生んだ女帝

 低い身分から唐の高宗の皇后に登りつめた武照という女性は、絶世の美女だったうえにあふれる才知と決断力と野心を兼ね備えていました。   その生涯を語るには字数が足りないので、気になる方はぜひネットで調べてみて下さい。スゴイ人です。  高宗は気弱な皇帝だったらしく、政治を妻である武照に任せっきりになりました。百済復興戦争で倭軍が半島に出兵したとき、唐軍の戦略を統括したのは武照だったようで。   武照は天智天武天皇とほぼ同年代です。武照は出世のために邪魔となるたくさんの皇族や貴族を粛清しましたが、代わりに低い身分の中から有能な人材を抜擢する才能がありました。   この女帝の時代に唐は隆盛を誇ったのです。そして唐の実権は皇室である李氏から、武照の出身氏族である武氏に移りました。  父(天智天皇)の野望を打ち砕いた中華帝国の本当の実力者が女性であり、その女性が新しい王朝の創始者になるであろうことを鸕野讚良は気づいていたでしょう。   武照が唐に代わって新王朝を創始するのなら、自分も東の女帝として日本に新王朝を創始して何が悪い。  ということで、天武天皇の死後、我が子である草壁皇子が即位前に死んだ後の 690 年、ライバル(大津皇子)の粛清を終えて鸕野讚良は天皇に即位し、さらに孫である軽皇子(のちの文武天皇)を皇太子にしたと書紀は伝えます。これが持統天皇です。 同じ年、武照も皇帝に即位して周王朝を開始しました。これが事実なら、妙に息の合った二人です。互いにその存在をどの程度知っていたのか、とても気になります。   持統天皇の即位も、その孫を皇太子にすえるのも、武照と同様に反対派を黙らせてようやく実現できたことです。つまり、強引すぎました。何か工夫をしなければなりません。   余談ですが、私は持統天皇の即位についても疑いを持っていますが、それは別の機会に触れます。 前の記事   次の記事

㉓ 天武天皇のあとを継いた妻

 大海人皇子(天武天皇)は庶民生活になじみがあり、女好きの博打好きで天文遁甲に秀でていたうえ槍の使い手だったと記録されます。   天文は道教にもとづく吉凶占いや神秘思想みたいなもの。遁甲は仙人が使う忍術みたいな特殊技能のこと。   つまり天武天皇は不思議な特殊技能を身につけ武勇にも秀でた風変わりな天皇であり、日本書紀では現人神として扱っています。  私は大海皇子の父が舒明天皇ではなく用明王家の血を引く高向王だったと推測していますが、乙巳の変後、用明王家の生き残りは命を狙われるということで、母(斉明女帝)の庇護で東国で隠遁していたと推測します。   そこで地元の豪族や庶民と交わり、天文や遁甲の術を身につけながら政治にはかかわらない男。危険人物ですから、中大兄皇子(天智天皇)は娘を 4 人も大海皇子に嫁がせました。これは監視、つまりスパイ活動の意味もあったかと思います。   そのうちの一人に鸕野讚良(うののささら)という女性がいました。この女性と大海皇子との間に草壁皇子が生まれます。   一方、天智天皇には大友皇子という後継者がいますが、この人の母親は采女という低い身分の出身だったと記録されます。   この時代までの倭王は王族か、蘇我氏のような実力者を妻にしますが、天智天皇は妻の実家が権力を握ることを恐れてか、采女(うねめ)のような身分の低い女性の子を跡継ぎにしました。  なにしろこの時期の中国では、皇帝の妻が皇室を事実上乗っ取るという異常事態になっていましたから、実力のある家柄を出身とする女性を妻にしない方が得策と考えたかもしれません。   しかし鸕野讚良にしてみると、正当な倭王家の血を継ぐ我が子が、采女の子である大友皇子に臣下として仕えることに不満を持ったかもしれません。  実家のためのスパイだったはずが、皮肉にも壬申の乱では、実家を打倒する夫を陰から支える結果となってしまいました。  だからといって彼女は天武王朝の永続を望んでいたわけではなかったのです。 今後続いてゆく天皇家の始祖は夫でいいのか。いや、二つの王家の因縁の争いを終わらせるためには自分が天皇家の血統の原点となるべきだ。そのためにはどうにかして夫の家系から権力を奪わなければならない。 彼女がこんなだいそれたことを考えたのには、唐王朝の乗っ取りに成功した

㉒ 天武王朝の開始

壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位して天皇となりました。 この天武天皇が史上最初の天皇であった可能性は高いと思います。 なお、天武天皇以前の天皇の漢風諡号(中国風のおくり名)は奈良時代後期に作られたものと言われています。   この新政権は反百済、反唐であり、ここまでの成り行き上、親新羅政権となります。 壬申の乱の黒幕として新羅が関わっている可能性を感じます。   新羅にしてみれば、倭国が唐につくかどうかは国の存亡に直結しますから、反百済勢力の希望の星であった大海人皇子を保護しつつ反乱を誘発するスパイ活動があって当然です。   天智天皇が死去する一年前、新羅人の道行という僧が三種の神器の一つである草薙の剣を熱田神宮から盗んで新羅に脱出しようとして失敗した事件が起きましたが、これも新羅のスパイ活動と疑えますし、新羅が天智天皇の死に関与した可能性もあります。   一方で百済人官僚は新政権における影響力を失ったばかりか、祖国復興も幻と消えました。 乙巳の変以来、王権の影の実力者として君臨していた中臣鎌足はすでに亡く、天武政権は官僚に代わって天皇の親族が重職を担う体制となったのです。 その後、新羅は半島統一に成功、形式上は唐に服属することで唐との和平を実現し、長きにわたった半島の戦乱は終結しました。 新羅が半島で独立を維持している限り、倭国は唐の脅威におびえる必要がないのです。 天武天皇が若かった時に、蘇我氏の傀儡倭王だったか、または傀儡倭王と同じ父を持つ弟だったか。   いろいろな可能性がありますが、天武天皇は特殊な個性とカリスマを持った人物であったに違いありません。   反乱に際して得た幅広い層からの支持と、激しい戦いを制したその実力を用いて、中央集権化を一気に推し進めました。 既得権益にしがみつく豪族層を郡司という地方名誉職に任じる一方で、地方豪族を支えていた有能な人材を官僚化しました。 豪族の私有地や私有民は国家が管理することになりましたが、これは明治維新後の版籍奉還に似たものと想像しています。 律令を実施するためには政府の役人が居住できる機能をもった恒久的な首都をつくる必要があります。そのため飛鳥に巨大な都城の建設を開始しました。これが後に藤原京と呼ばれるようになります。 急速に天皇への権力集中が進んでゆき

㉑ 古代史最大の兵乱 ~ 壬申の乱

 669年と671年、唐の郭務宗らが2000の唐兵を率いて北九州に上陸し、捕虜を返還したと日本書紀にありますが、当時の2000人はかなりの大軍です。 さて、これをどう解釈したものでしょう。我が国で外国軍隊の進駐を受けたのは、マッカーサーの時とこの時の二回だけです。 倭国は唐に従属する代わりに唐軍の進駐を受け入れ、見返りに捕虜の返還を受けたと思われます。 続いて倭唐安全保障条約に基づいて新羅に出兵することになるでしょうが、このタイミングで中大兄皇子(諡号:天智天皇)が死去しました。 日本書紀では病死とされますが、扶桑略記という平安時代の記録によると天智天皇は山階(やましな)というところで遠乗り(馬で散歩)していた際に暗殺されたことをにおわせています。 いずれにせよ中大兄皇子の子の大友皇子が跡を継ぎましたが、ここで大海人皇子が吉野で挙兵したのです。 大海人皇子は日本書紀によれば中大兄皇子の同腹の弟と記録されていますが、これを疑う説が多数あることを忘れないでおいてください。 中大兄皇子の死が672年1月、唐軍の撤収が同年5月、大海人皇子の挙兵が同年6月と記録されます。 挙兵の理由について教科書では「皇位継承争い」と説明されますが、そんな理由で天下を二分する大反乱を起こせるものでしょうか。 大海人皇子を支持する勢力がどのような存在で、なぜ支持をしたかが歴史上明らかではありませんが、これを解明することは日本成立の謎を解くカギとなるでしょう。 ここで参考となるのは明治維新の時代です。徳川幕府は国防のために集権化と近代化を目指して様々な改革に取り組みましたが、結局滅亡したのはなぜか。言い換えれば、反幕府勢力はなぜ幕府を滅ぼしたのか。 簡単に言うと、<幕府に任せておいてもムダ。>ということに人々が気が付いたからでしょう。それが決定的となったのは、おそらく第二次長州征伐のあたりです。 幕府軍が弱いということが明らかになってしまったことで、幕府には国を変える意思も実力もないと証明されてしまったことから、幕府の未来に誰も期待しなくなってしまった。 本当に強い国になるためには天皇のもとで有能な人材が協力し合って体制を根本から改めなければならないから新しい政府を作る必要があった。 さて。これと似たような現象が仮に7世紀で起きていたとしたらどうでしょう。 倭国の連合軍が白村江で大敗した時、倭人

日本と天皇のはじまりについて思う

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  国家を守るために命をかけて戦う人たちがいます。だとしたら「国家とはなにか」というテーマは人にとって重要です。「国家は命より重いもの」かもしれないから。では、日本という国家についてはどうでしょう。  特に私が気にしているのは、<日本の国家元首は誰か?>ということを、日本人はどんなふうに考えているのか。  ウクライナ共和国であれば大統領が元首だが、ウクライナ国民は元首のために戦うのではなく国家のために戦う。  だから、元首が誰であろうとたいしたことではない。  私もそう思っていました。それでも今、このことを気にしていることには理由があります。しかし、その理由はあえて後にゆずりながら、あなたに聞いてみたいのです。  日本の国家元首は誰?  「the head of state」 国家の頭。つまり「元首」は国家権力の核となる存在ですが、多くの日本人は日本の元首を総理大臣だと言います。  では、総理大臣を任命するのは誰か。日本国憲法によれば、国会の議決にもとづいて指名され、指名された者を天皇が総理大臣に任命します。  「指名」とは「この人です。」と指さすだけのこと。任命は「職務を任せる」ということです。  つまり、総理大臣の職務は、天皇が総理大臣に任せている。言い換えれば、総理大臣の職務は本来、天皇が行うべきものだということです。  <天皇に職務を任せている存在が国民だ>という論理であったとしても、「特定の誰か」が天皇に任せているわけではない。つまり、日本の国家元首は天皇なのです。ここで「大臣」という言葉を思い返してください。  「大臣」と言えばどこの国でも国王の臣下です。つまり、国王の職務を補佐するのが大臣であり、それら大臣の職務を総理する者を総理大臣と呼びます。つまり、大臣が元首であるということは原則としてありえません。一方で「大統領(president)」は元首から任命されるのではなく、もっぱら選挙によって国民から選ばれる国家元首です。  日本の国家元首は天皇であり、日本国憲法の第一条にはこう書いてあります。 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。  私が公民の授業か何かでこのことを初めて耳にしたとき、私の心には違和感がありました。  一言で言えば、「天皇がいなくても日本は日本だ。」という意味

⓪ 7世紀の謎と推理ポイント

① 日本最初の女帝が推古天皇だったという日本書紀の記録がどうにも納得できない。厩戸皇子が摂政で皇太子であったということが不自然に思える。本当は、厩戸皇子(聖徳太子)は倭王だったのではないか。 ② 倭王ではなかったとされる山背大兄王が蘇我馬子に襲撃された事件について、日本書紀の取り上げ方が奇妙すぎる。実際は山背大兄王が倭王だったのではないか。そして、この事件のあと、用明天皇の血統の誰かが傀儡倭王として即位したのではないか。 ③ 日本書紀では斉明天皇が重祚したことになっているが、乙巳の変で弟の軽皇子に譲位したあとで再度王位についたことが不自然である。本当は、軽皇子は斉明天皇の兄だったのではないか。そして、乙巳の変のときに倭王だったのは、皇極女帝ではなく、別の誰かだったのではないか。 ④ 斉明天皇が鬼のようなものから祟られていると考えさせる記述が日本書紀にあるのはなぜか。蘇我氏や善光寺の言い伝えとも関係があるのではないか。 ⑤ 天皇号の開始には重大な政治的背景があったと思うが、最初に天皇号の使用を開始した人物が明確に特定されておらず、その過程が説明されていない。おそらくは天武天皇が最初ではないか。 ⑥ 中大兄皇子は大海皇子に4人の娘を嫁がせていること、大海人皇子が壬申の乱において短期間に大義名分を得て反乱軍を組織できたこと、天武天皇の正当性が持統天皇によって否定されているように思えることなどが不自然です。天武天皇と天智天皇は父親が異なるのではないか。天武天皇は天智天皇よりも年上ではないか。 ⑦ 天武天皇の死後、持統天皇が即位したことが不自然である。よほど異常な状況でなければ、これだけ多くの王位継承者を押しのけて女帝が即位することはできない。持統天皇の即位の背景には重大な動機があり、持統天皇の血統の正当性を確立するために日本書紀が作られたのではないか。 ⑧ 斉明天皇の北九州出陣時の記録が日本書紀における神功皇后の活動と類似しているように思えるのはなぜか。神功皇后の子である応神天皇が九州から畿内に上陸して仲哀天皇の子を滅ぼしたことは、孝徳天皇と斉明天皇の関係に関連があるのではないか。 ⑨ 皇祖神である天照大神が女神である一方、その夫の須佐之男命が軽視されているのはなぜか。持統天皇の正当性を確立するためではないか。 ⑩ 伊勢神宮の成立事情

① その倭王は男か女か

 出張で大阪に行ったとき、聖徳太子信仰の展覧会のチラシを目にして、フト、こんなことを考えました。 「信仰」とはつまり、聖徳太子には神秘的な要素があるということですが、聖徳太子は後世に仏教の擁護者として尊敬されただけでなく、奈良時代につくられた日本書紀の中ですでに神秘的な逸話が多数載せられています。なぜだろう。 厩戸皇子は後世に聖徳太子と呼ばれました。聖なる徳のある皇太子。 日本書紀によると、推古天皇の摂政であり、皇太子であったにすぎず、母方の実家である蘇我氏の支援で政治を行ったとされます。天皇ではない政治家が、立派な人物として神のごとく崇拝されるのには、なにか特殊な事情があるのではないか。 特に気になるのは、聖徳太子は本当に摂政で皇太子だったのか?ということです。 「摂政」 君主に代わって政治を行う職 推古天皇は女性ですが、政治のすべてを聖徳太子に任せたというのは、聖徳太子がよほど優秀だったからだそうです。だったら聖徳太子がさっさと天皇になればいいのに。 皇太子ですから次の天皇になることが予定されていますし、推古天皇が即位したとき彼はすでに20歳になっています。 ちなみに、「天皇」という地位がこの時代にすでにあったという説が常識に近いようですが、私はそう考えておらず、その理由は後で触れます。この時期はまだ「日本」という国名はなく、倭国であり、倭国の最高指導者は天皇ではなく倭王であるという前提で話をすすめますが、人物特定においては一般的に使用される「〇〇天皇」という通称をやむを得ず使います。 推古天皇について、才色兼備だったこと以外ほとんど記録に残っていないということは、学者さん達も認めているようです。さらに重大な問題は、隋書という中国側の記録では、<倭王には妻子がいる>、つまり男であるとされていることです。 これについて学者さん達は、使者に面会したのは聖徳太子であり、日本の君主は外交儀礼として使者には会わないから、使者が聖徳太子を倭王だと勘違いしたと考えているそうです。 しかし、魏志倭人伝では卑弥呼が邪馬台国の女王だったと記録されています。卑弥呼については人前に出ないで政治をしていたと記録されていますが、それでも卑弥呼が女性であることが中国側で記録されているのです。それより300年以上あとにやってきた隋の使者は魏の使者よりもニブい連中だったのか。 しかもその倭王は、

② 頓智外交

 教科書では厩戸皇子(聖徳太子)が摂政だったとされる西暦600年。倭王が中国隋の皇帝に使者を送りました。これを遣隋使とも言います。隋の皇帝が倭から来た使者に対し倭王の様子について尋ねたところ、使者はこんな説明をしたとか。 「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、座禅しながら政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」 それを聞いた高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。以上、WIKI PEDIAより さて。この意味がおわかりでしょうか? 高祖とは隋の皇帝ですが、とても不合理だから改めろと倭王に指示した。 何が不合理なの? 起床時間が早すぎること? 少なくとも、皇帝にはこのナゾナゾの意味がわかっていたと思われます。なぜなら、公式に「改善を訓令」するほどの重大事だと認識したのだから。 私の推理では、これはトンチみたいなものです。つまり、一休さんのごとく柔らかい頭で解釈する必要があります。 ヒントは、「天」です。倭王は「天が兄」なのだと言う。 「天皇」「天下」とかいう言葉があるように、権力者にとって「天」は非常に重要な概念です。そして、「天」において一番偉い存在とは何か。「偉い」ということは、たくさんの星々に囲まれた存在ですね。つまりその「天」は夜空。 夜空でもっとも偉い星とは? 前の記事   次の記事

③ オレ、東の天子

 天空の中でもっとも偉い星とは? 太陽ではありません。太陽は天空に一つしかないのです。「日」は弟なのですね。 さて、倭王(聖徳太子)は中国の皇帝に何を言いたかったのか。 夜空の星々は動いているが、星々の軌道の真ん中にあって動かない星がある。それを北極星といいます。つまり、星々は北極星を中心に回っているように見えます。 北極星は常に動かず、天空の中心にいる。だから皇帝をこの世界の中心とみなす中華思想において、北極星は皇帝権力の象徴なのです。そして倭王は「天が兄」である。つまり、中華秩序を尊重することを一応認めています。 しかし「倭王は日が上るまでに仕事を辞めるんです。」 これはある天体を意味しています。知らない人はいない、あの星。明け方に見えて、日が出ると消える「明星」。つまり金星。 金星は惑星だから北極星を中心とした軌道を取りません。倭王は金星である。だから皇帝の周りを規則正しく動いたりしない。 皇帝の顔を立ててお付き合いはするけど、倭国は独自の道を行くからね。 でも、隋帝国が本気が怒ると怖いから、公式伝達を避けてトンチにして中国側の反応を試したのだと私は推理します。それに気づいた皇帝は、「そんな主張は認めないぞ」という意味で「改めろ」とトンチに応じたのです。 で、それに対して倭王はどう反応したか。倭王はこんな手紙を皇帝に送りました。 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々 これをラップ調で現代語訳してみます。 オレ、東の天子。お前、西の天子。 メール送るぜ、最近元気かい~♪ これを読んだ皇帝はどんな気分だったでしょう。私だったら、こう思いますね。 「コイツ、いつかぶっ潰す。」 聖徳太子の外交手腕がうかがえます。そして、この外交方針はこのあとの倭国の運命に重大な影響を及ぼすことになるのです。 前の記事   次の記事

④ 聖徳太子時代の国際情勢

 ここで聖徳太子の時代の倭国の置かれた環境を眺めてみます。 聖徳太子が生まれた頃の倭国は半世紀前の「磐井の乱」の後は騒乱も少なく、倭王の権力は関東から九州北部にまで及んでいましたが、直接支配していたのは畿内周辺、つまり現在の奈良県、京都府、大阪府あたりまでだったと思います。 その他の地域には豪族が割拠していましたから、倭王は後の幕藩体制における将軍家のような立場で諸外国と外交していました。「諸外国」とは主に南北の中国王朝と朝鮮半島の3つの国、つまり北部の高句麗、南部の百済と新羅です。 半島の覇権を争う三国はそれぞれ倭国を味方につけようと必死で、倭国も半島南部に領地を持っていたところ、新羅の侵略を受けて欽明天皇の時代に手放してしまいました。これが教科書でいうところの任那日本府です。 欽明天皇(厩戸皇子の祖父)は任那(半島東南部)の再興を遺言して亡くなり、その後の新羅は基本的に倭国の敵でしたが、新羅はさまざまな外交努力で倭国との戦争を回避していました。一方、倭国は半島に軍事介入する熱意を徐々に失いつつあったようです。 倭国としては複雑な半島情勢に翻弄されるより、距離を置いて外交的に優位に立てばよいということでしょう。しかし西暦589年、東アジアの情勢を一変させる大事件が起きました。中国の北半分である隋によって南半分の陳という国が滅ぼされ、隋が中国を統一したのです。 歴代中国王朝は余力ができると領土拡張戦争を始めます。朝鮮半島も漢の時代には一時直轄領でしたから、隋が半島に勢力を拡大するに違いない。 しかも隋にとっては、脅威となる北方遊牧民を高句麗が支援することへの恐怖がありました。つまり隋は高句麗を滅ぼしたい。それを恐れる高句麗は百済と新羅を抑え込むために倭国と仲良くしておきたい。これが聖徳太子が二十歳になった頃の国際情勢でした。 高句麗が隋に滅ぼされたら、その次は百済と新羅が併合され、その次は倭国が危ない。隋に恭順したら倭国の独立は維持できるか。これが倭王にとって最大の政策課題ですが、どうでしょう。 隋と倭では国力だけでなく文明のレベルが違いすぎますから、半島が中国化されたら、西日本の豪族は中国になびくかもしれません。 当時の日本列島はいろんな言語を話す種族が雑居していて、まだ「日本人」が存在しないのです。 ほんの百年前には倭王自身が中華皇帝から将軍の称号をもらって喜ん

⑤ 仏教導入の裏側で

 倭国存続のため、聖徳太子は地方豪族から権力を奪って地方を直接統治する必要に迫られました。 ここで登場するのが仏教です。倭国では、古来から各地の氏族が祀る神がいて、特に祖先を重要な神として崇めていました。祖先を崇めることは、祖先から受け継いだ地方権力を維持または拡張させる欲求につながります。 祖先を祀る最大の祭祀場所が古墳です。 古墳時代ですから、地方民は地方権力の象徴である古墳を毎日眺めながら生活しているわけです。 この状況では中央集権化はすすみません。もし仏教を広めたらどうなるか。仏をこの世界における唯一絶対の存在としてしまえば、地方の神や祖先神を仏より格下の存在にすることができ、同時に倭王が仏教の擁護者として最上位の立場を確立できる。 そのためには圧倒的にきらびやかな寺院を立てて、その迫力を見せつけるのが一番。そこで聖徳太子は四天王寺など、地方豪族が真似できない巨大寺院を建設しました。 五重塔の荘厳さとその社会的機能に比べ、古墳は大きいだけでなんの役に立たない。神より仏にすがる方がより現実的で意味がある。 そんな価値観を社会全体に植え付ける必要がありました。 寺院の社会的機能とは?一つは文化の普及です。経典を読むには漢字、つまり外国語の学習が必要ですが、倭人の多くは字を知りませんからお経を読めません。寺院では経典を、つまり外国語を教えてくれるわけです。 明治時代に英語やフランス語を学んだ渋沢栄一みたいな人が政府高官になったのと同じで、低い身分でも最先端の知識を持った方が自然とエラくなりますから、外交権を独占して仏教導入を推進する倭王とその官僚達が徐々に優位に立ちます。 地方豪族は時代遅れのみじめな存在として、倭国の官僚たちにすがるしかなくなってゆき、やがて地方豪族の子弟が国営の寺院で官僚(仏僧)の指導のもと文字、さらには倭王を中心とした新国家主義を学ぶ羽目になります。 そんな状況で新興勢力である蘇我氏が台頭してきました。蘇我氏こそ仏教の先駆者であり、同時に中央集権国家成立の脚本家でありました。 そして聖徳太子は蘇我氏の血を受けた、蘇我氏が擁立した大王だったのです(私は聖徳太子が摂政ではなく倭王だったと想像しているので)。 しかし、こういった改革に反発する勢力もありました。その筆頭が物部氏です。蘇我氏を打倒しなければ、古い勢力は新興官僚勢力に地位と権力を奪われて

⑥ 恐怖の戦闘部族物部氏

 倭人が飽きもせず古墳づくりに汗を流していた時代。 西暦で460年頃、吉備の国の王が新羅と通じて反乱を起こしたとき、雄略天皇が物部の兵士30人を送って一族を皆殺しにしたと日本書紀にあります。 普通、こういうときは大軍を繰り出して城攻めするんじゃないかと思うんですが、たった30人で一国の支配者を一族ごと皆殺しって。。。 このとき派遣されたのが物部氏なのです。 「モノの部(べ)」の「モノ」はどんな意味でしょう。 「武士や兵士」を「もののふ」というのは、どう考えても「もののべ」が由来だと思うのです。 「物々しい」という形容詞には「堂々としている。重々しい。大げさな。」という意味がありますが、これは重武装している様子が語源だと思われます。 つまり、「モノ」は「武具」を意味するのです。 「部(べ)」とは、ある特殊な仕事を担当する集団を意味します。 現代でも野球部とかサッカー部といった使われ方をしますが、「モノの部」だったら「武具を専門的に扱う集団」となるでしょう。 物部氏は要するに、武具を生産し使う人たち、すなわち戦闘のプロとして倭王から認められた氏族ということです。 反乱大名をたった30人で殲滅する方法として、忍者のようにこっそりと暗殺したのか、それとも「物々しく」堂々と正面から攻撃したのか。 いずれにせよ、よほど卓越した武器生産技術と戦闘技能を持っていて、派遣された30人という数にはなにか合理的な意味がありそうです。 当時すでに倭国は半島で高句麗の騎馬軍と数万単位の戦力で戦った実績があるのですから、大軍を動員することもできました。 吉備氏は岡山あたりで倭王権を支えた有力氏族であり、吉備王の住居は武装した兵士によって日夜厳重に警戒されていたはずです。反乱を起こしたのなら、なおさら厳重に武装していたでしょう。 物部の兵士はそこにわずか30人で押し入って吉備王一族を全滅させる実力があったのです。最新の武器とその使い方を日夜研究し訓練を積んでいたでしょう。 布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という剣が天理市の石上神宮に祀られていますが、この神社は物部氏が管理した大和朝廷の武器庫でした。 物部氏の恐ろしさは倭人社会全体で知れ渡っていたでしょう。 倭王直属の特殊戦闘部隊であった物部氏は、九州で起きた磐井の乱や半島出兵に際しても倭軍の統率者として数万の軍勢を指揮することがありました。

⑦ 真実の7世紀を知ることの意味 日本書紀の謎を解くことは日本を知ることでもある

 長々と聖徳太子ばかり取り上げるのはなぜか? と思われるので、ちょっと横道にそれます。 一言で言えば、今日本が直面している情勢と7世紀の歴史は似ていると思うからです。 自然に根差した独自の社会があった日本列島に、激しい治乱興亡によって生み出された大陸の社会変革の波が及んできたのが弥生時代です。 やがて倭族の集団をまとめる親玉が中華皇帝から倭国王に任命される、いわゆる古墳時代へ移行しますが、この時代の中華王朝は南北に分裂していたので倭族にとって危険な存在ではありませんでした。 倭族は南朝と親分としてあおいでいましたが、南朝は倭族にとって政治文化の面で王権の後ろ盾となってくれるありがたい存在でした。 しかし6世紀末に北方の隋が南朝を滅ぼして中華統一を成し遂げ、あまった国力を領土拡張に振り向け始めました。 盃を交わした兄貴分の組が敵対する組に滅ぼされてしまった。かといって、敵の組長と盃を交わす気分にはなれない。なにしろ、こっちの方が漢王朝の流れをくむ由緒正しい系統の組織なのです。 その国際情勢を分析して未来を予想したごくわずかな倭人は、驚くべきことに、倭族の社会システムの変革を考えはじめました。 親分の組織が滅亡したことで、自分の道を模索する必要に迫られたのです。 まだネットもメディアもなく、人の移動に気が遠くなるほどの時間がかかる7世紀に、中華の政治情勢を分析して社会変革を立案し、独立した国家を夢見て実行しようとした人々がいた。 もちろん大多数は何も知らず、何も考えていない人々だから、変革に対して無意識に、しかし必死で抵抗します。 現代人でさえ、中華を巡って日本が直面している現実を他人事だと思っているけれど、1400年も前の時代にどうやって人の気持ちと社会の根本を変えられるというのか。 ウクライナ戦争だって、「脅すだけで侵攻はありえない」と言われてましたね。組織が体験したことのない危機にリーダーが備えようとしても、実際に痛みを感じるまで、大衆は気が付こうとしないものです。 その課題を乗り越え、たくさんの犠牲と苦難のはてに「日本という国家」が誕生した物語を <な・ぜ・か> 日本人は知りません。 10年間英語の授業を受けても英語を話せないのと同じく、この国で歴史の授業を受けても「日本とはなにか」という根本の部分さえ素通りしている。 しかし、歴史から学ぶという趣旨を思えば、今

⑧ 蘇我氏と崇峻天皇の時代 丁未の乱と暗殺の謎

 古墳時代の大名連合政体を脱して律令国家への道筋をつけようとしたのが蘇我氏です。 物部守屋と蘇我馬子が王位継承候補を巡って対立し戦争に発展した丁未(西暦587年)の乱。戦闘は物部氏の本拠があった河内国の渋川で起きたと日本書紀にあります。 あまり信用できない日本書紀ですが、ほかに情報がないので信じることにしますと。 多数派工作が整ったところで蘇我氏側が突如軍勢を動かし、物部軍は本拠で防戦にあたりました。 物部守屋は木の上から矢を射っていたところを射殺された記録にあります。樹上からの射撃は命中率はあがりますが身をさらすので危険です。 矢の数が少なくなって大将自ら百発百中を狙うしかなくなったと推測します。つまり、蘇我軍は事前に大量の矢を準備することで物部の精兵に対抗したかな。 苦戦する蘇我軍の中に14歳の聖徳太子がいて、勝利したらお寺を立てますと仏さまに祈願したとか。 こうして建てられたのが、今も残っている四天王寺です。 勝利した蘇我馬子は娘婿である泊瀬部皇子(崇峻天皇)を用明天皇の後継として擁立しました。 崇峻天皇は用明天皇の弟で、聖徳太子は用明天皇の子でしたね。 この時代の倭王には実力と経験が求められたので、兄の後を弟が継ぐことがよくありました。 しかし、多大の犠牲を払って擁立された崇峻天皇は592年、なんと蘇我馬子によって暗殺されました。 臣下が王を暗殺するという重大事件なのに、どういうわけかこの事件で倭国の政情がゆらいだ記録がありません。 気になるのは、東国の貢ぎ物を持ってきた使者に対面する儀式の際に、東漢駒という者が倭王を暗殺したということ。 これと似たような事件がこのあと起きますね。乙巳の変では外国の使者と面会する儀式で蘇我入鹿が殺害されました。 警戒厳重な権力者を殺害するには、こんな方法しかなかったのかもしれません。 崇峻天皇は殯(もがり:遺体を埋葬しないでしばらく放置する葬礼)を省略されて埋葬されました。 一説には、非業の死を遂げた王の遺体が放射線のごとく周囲にタタリをまき散らすので、急いで埋葬したとか言われます。 では崇峻天皇はなぜ殺害されたのか。だいたいこの国でこういうことが起きるときは外交問題が絡んでいる可能性が高いです。 この時期から倭国は国際情勢の激変に翻弄されはじめるのです。 前の記事   次の記事

⑨ 倭王暗殺の背景 聖徳太子(厩戸皇子)の改革と外交路線 高句麗情勢との関係

 中国では589年に北方の隋が南方の陳を滅ぼして統一を果たし、同年中に高句麗や百済が隋に使者を派遣しました。 この時点で高句麗は隋の侵略を想定し、倭国を味方に引き入れる外交政策を展開しますが、崇峻天皇の政権にとって、高句麗と隋、どちらにつくかが倭国の命運を左右します。 高句麗は仏教や最新技術の輸出をエサに、仏教擁護派の蘇我氏に接近しました。ちなみに聖徳太子の母親は蘇我氏です。 崇峻天皇暗殺後、推古天皇の摂政となった聖徳太子は仏教の発展に尽力したと記録されますが、太子には仏教の師匠として恵滋という僧がいました。 この僧は595年に高句麗からやってきた高句麗人で、聖徳太子の政治顧問だったと思われます。 崇峻天皇は、高句麗との連携に消極的だったから聖徳太子一派に消されたのか、それとも積極的過ぎたから消されたのか。もしや新羅や百済が関係しているのか。 崇峻天皇暗殺の6年後(598年)に隋の大軍が高句麗に侵攻して撃退されます。その後、高句麗は百済と新羅に攻め込んで背後の安全を図ろうとします。 これを知って倭国は、かつて倭国に属していた伽耶地方(半島南部)を新羅から奪還する好機と考えたようです。伽耶の奪還は欽明天皇の遺命でもありました。 4年後の602年に新羅征討計画を発動しますが、出征直前に軍司令官が死んだりしてとん挫したと記録されます。 このとおり崇峻天皇から実権を譲り受けた聖徳太子の外交路線は親高句麗、反新羅であり、同時に隋と敵対する覚悟を持ったとも推測できます。 603年に冠位十二階の制定、翌年に17条の憲法を制定と、隋の制度を学びながら中央集権化を進めていきます。 そして607年、小野妹子を隋に派遣しました。 そのときのやりとりは前に触れたとおりで、倭国は隋に服従しないで対等関係で望むという強気の、しかし微妙な外交を展開しました。 この外交路線は「高句麗は強い」という前提で成立します。しかし、その前提が崩れ去るかもしれない重大事件がこのあと勃発します。 前の記事   次の記事