⑨ 倭王暗殺の背景 聖徳太子(厩戸皇子)の改革と外交路線 高句麗情勢との関係

 中国では589年に北方の隋が南方の陳を滅ぼして統一を果たし、同年中に高句麗や百済が隋に使者を派遣しました。

この時点で高句麗は隋の侵略を想定し、倭国を味方に引き入れる外交政策を展開しますが、崇峻天皇の政権にとって、高句麗と隋、どちらにつくかが倭国の命運を左右します。

高句麗は仏教や最新技術の輸出をエサに、仏教擁護派の蘇我氏に接近しました。ちなみに聖徳太子の母親は蘇我氏です。

崇峻天皇暗殺後、推古天皇の摂政となった聖徳太子は仏教の発展に尽力したと記録されますが、太子には仏教の師匠として恵滋という僧がいました。

この僧は595年に高句麗からやってきた高句麗人で、聖徳太子の政治顧問だったと思われます。

崇峻天皇は、高句麗との連携に消極的だったから聖徳太子一派に消されたのか、それとも積極的過ぎたから消されたのか。もしや新羅や百済が関係しているのか。

崇峻天皇暗殺の6年後(598年)に隋の大軍が高句麗に侵攻して撃退されます。その後、高句麗は百済と新羅に攻め込んで背後の安全を図ろうとします。

これを知って倭国は、かつて倭国に属していた伽耶地方(半島南部)を新羅から奪還する好機と考えたようです。伽耶の奪還は欽明天皇の遺命でもありました。

4年後の602年に新羅征討計画を発動しますが、出征直前に軍司令官が死んだりしてとん挫したと記録されます。

このとおり崇峻天皇から実権を譲り受けた聖徳太子の外交路線は親高句麗、反新羅であり、同時に隋と敵対する覚悟を持ったとも推測できます。

603年に冠位十二階の制定、翌年に17条の憲法を制定と、隋の制度を学びながら中央集権化を進めていきます。

そして607年、小野妹子を隋に派遣しました。

そのときのやりとりは前に触れたとおりで、倭国は隋に服従しないで対等関係で望むという強気の、しかし微妙な外交を展開しました。

この外交路線は「高句麗は強い」という前提で成立します。しかし、その前提が崩れ去るかもしれない重大事件がこのあと勃発します。


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