① その倭王は男か女か

 出張で大阪に行ったとき、聖徳太子信仰の展覧会のチラシを目にして、フト、こんなことを考えました。

「信仰」とはつまり、聖徳太子には神秘的な要素があるということですが、聖徳太子は後世に仏教の擁護者として尊敬されただけでなく、奈良時代につくられた日本書紀の中ですでに神秘的な逸話が多数載せられています。なぜだろう。

厩戸皇子は後世に聖徳太子と呼ばれました。聖なる徳のある皇太子。

日本書紀によると、推古天皇の摂政であり、皇太子であったにすぎず、母方の実家である蘇我氏の支援で政治を行ったとされます。天皇ではない政治家が、立派な人物として神のごとく崇拝されるのには、なにか特殊な事情があるのではないか。

特に気になるのは、聖徳太子は本当に摂政で皇太子だったのか?ということです。

「摂政」 君主に代わって政治を行う職

推古天皇は女性ですが、政治のすべてを聖徳太子に任せたというのは、聖徳太子がよほど優秀だったからだそうです。だったら聖徳太子がさっさと天皇になればいいのに。

皇太子ですから次の天皇になることが予定されていますし、推古天皇が即位したとき彼はすでに20歳になっています。

ちなみに、「天皇」という地位がこの時代にすでにあったという説が常識に近いようですが、私はそう考えておらず、その理由は後で触れます。この時期はまだ「日本」という国名はなく、倭国であり、倭国の最高指導者は天皇ではなく倭王であるという前提で話をすすめますが、人物特定においては一般的に使用される「〇〇天皇」という通称をやむを得ず使います。

推古天皇について、才色兼備だったこと以外ほとんど記録に残っていないということは、学者さん達も認めているようです。さらに重大な問題は、隋書という中国側の記録では、<倭王には妻子がいる>、つまり男であるとされていることです。

これについて学者さん達は、使者に面会したのは聖徳太子であり、日本の君主は外交儀礼として使者には会わないから、使者が聖徳太子を倭王だと勘違いしたと考えているそうです。

しかし、魏志倭人伝では卑弥呼が邪馬台国の女王だったと記録されています。卑弥呼については人前に出ないで政治をしていたと記録されていますが、それでも卑弥呼が女性であることが中国側で記録されているのです。それより300年以上あとにやってきた隋の使者は魏の使者よりもニブい連中だったのか。

しかもその倭王は、隋の皇帝に対して対等外交をやってのけた危険人物でした。

東アジアの歴史において、中華の皇帝は唯一最高の政治的存在だという基本原理がありましたが、倭王はそれに逆らおうとしたのです。つまり、東アジア世界における独自の地位を築こうとしていたということです。

この5年後に中華王朝である隋は高句麗(朝鮮半島北部)に侵攻して敗北しますが、このときの倭国は高句麗と親しくしていたから、隋からみれば敵対国家に見えます。実際に半世紀後には倭国は半島へ出兵し中国軍と戦争することになります。

西暦608年、隋から倭国に使者が派遣されますが、倭王がどんな人物であるかは使者たちにとって国家戦略上最大の関心事のはずですから、スパイなど様々な手法を使って倭王について情報を収集し分析したに違いないです。その分析結果が<倭王には妻子がいる>でした。

米国大使やCIAがプーチン氏の性別を間違えて報告したという話があったら信じられるでしょうか?

少なくとも、対外的に倭王が男だったことは疑いようがないのです。もし推古天皇らしき女性が実在したとしても、倭国内の政治通だけが「実はうちのトップは女性なんだよね。」と認識していたということか。もしそうであったとしても、世間が認める実質的な倭王が聖徳太子であったことは変わりません。

しかも、推古天皇が史上最初の女性天皇だという割には、女性で天皇になった理由が明らかではないのです。現代でも天皇が女性か女系かといった問題で議論になるのです。古代において、しかも国際的緊張が高まりゆく時代において、最初の女性天皇がたいした理由もなく、優秀な皇太子を差し置いて即位するものでしょうか。

要するに、聖徳太子は倭王だっだが、どうしても推古女帝というデッチアゲが必要だったのではないか。

という疑いが生じてしまうのです。それはなにか後ろめたい事情があったことを意味します。

聖徳太子が天皇(倭王)であっては困る事情があったので、歴史を改ざんしてその痕跡を消した。

そんなことができるのか。

例えば、河野洋平さんは総理大臣だったけど麻生太郎さんは総理大臣になったことはない。

これが嘘か本当か街角インタビューしたら、どんな反応になるでしょう。結構多くの人が、間違えるのではないでしょうか。

現代でさえそんな程度ですから、日本書紀を書いた時代の100年前の倭王が誰だったかなんてことは、その子孫か政敵でもないと記憶に自信がないでしょう。

聖徳太子の子孫は日本書紀が作られた時代にはほぼ滅亡しているのだから、覚えているのは政敵だけ。あいまいな記憶しかない人々にとっては、政府公認の歴史書にケチをつけるにはそれなりの勇気が必要です。だから、この程度の「嘘」を「本当」に変えることは難しくはない。

プーチン政権にしても、現在進行中のウクライナ侵攻のことでさえ、あれほど大胆に嘘を言うのです。21世紀でさえ堂々とあれほどの嘘をつく政府が存在するのに、8世紀に作られた日本書紀を信じろと言う方が無理というものですが、かといってほかに手がかりはほとんどありません。

日本書紀は当時の政府がつくった記録である以上、すべてがでたらめであったとも考えにくいです。政府関係者が目にしたとき、なるほどそのとおりだ、と思わせる程度の信ぴょう性が必要なはずです。プーチン政権にしても、必要のない嘘はつかない。言い換えれば、どこで嘘をついたかで、彼らの本音を探ることもできるでしょう。

一つの方法として、もし聖徳太子が倭王だったら倭王家の系図がどうなってしまうか。を考えたみてはどうか。それはあとで試みることにしましょう。


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