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善光寺の謎 7世紀の謎を解くカギとなる斉明天皇の秘密

善光寺は日本最古の秘仏とされる阿弥陀如来像があり、日本有数の古さを誇る寺ですが、歴史的に謎が多い寺です。 日本書紀によると、その阿弥陀如来像は6世紀に蘇我氏の庇護によって百済から日本へ仏教が伝えられたときにもたらされたものですが、その後、疫病が流行したとか。 当時、蘇我氏と対立する物部氏は、仏教のせいで神々が怒ったのだと主張して仏教を弾圧し、蘇我氏が祀っていた仏像を無理やりに難波の堀江へ捨ててしまいました。 それを拾って信濃の国に持ち帰ったのが本田善光、つまり善光寺の創設者とされる人物です。 蘇我氏が保管していた仏像をたまたま本田善光が拾ったという不思議な話。 善光寺は蘇我氏と関係があるような気がしてくるわけです。 善光寺に伝えられる善光寺縁起には不思議な伝承があります。 本田善光には善佐という息子がいて早死にしたのですが、阿弥陀如来の力で善佐はあの世から現世へ戻ることができました。 その戻る道中で、地獄へ連れていかれる皇極天皇を見かけたというのです。 皇極天皇は中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター(645年乙巳の変)によって蘇我入鹿が暗殺された際に、殺害現場に居合わせたとされる女性天皇です。 皇極天皇が地獄へゆく話。 本田善光と蘇我氏との妙な関係。 さらに不思議なのは、善光寺の拝殿の配列ですが、秘仏でありご本尊である阿弥陀如来は参拝者からみて左側、つまり脇の方の瑠璃壇の奥にあって、中央には御三卿と言われる本田善光とその妻、そして善佐の像が安置されています。 阿弥陀如来でなく本田一族が本尊であるかのように思えてくるのです。 私は善光寺が蘇我氏の祟り封じのための寺ではないかと疑っているところです。 それでは、斉明天皇はなぜ祟られたのか。元の名で宝女王(たからのひめみこ)は二度天皇になった(重祚とかいう)古代史上とても重要な存在です。 日本書紀によれば、有名な乙巳の変(645年)は一度目の在位中(皇極天皇)に発生し、彼女の目前で蘇我入鹿が中大兄王子(後の天智天皇)に殺害され、皇極天皇はその直後に退位。 その後継として擁立された弟の孝徳天皇が崩御すると、再び斉明天皇として即位したと日本書紀はいいます。 さらに斉明天皇は滅亡した百済の復興のため朝鮮半島に軍隊を派遣しようとしましたが、斉明天皇が北九州に司令部を置いたときの奇怪な記録が日本書紀にあります。 「そのとき、朝倉山の

斉明天皇が祟られた理由を分析

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 斉明天皇は日本書紀の謎を解くうえで重要な、そして複雑怪奇な人物です。以下に日本書紀からわかるプロフィールを記します。(ウィキペディアより) ********************* 諱(いみな) 宝(たから) 女性  西暦594年生まれ 661年死去 皇極天皇在位期間:642年2月19日 - 645年7月12日 斉明天皇在位期間:655年2月14日 - 661年8月24日 和風諡号:天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 父親 茅渟王 母親 吉備姫王 配偶者  一度目:高向王(用明天皇孫)   二度目:舒明天皇(敏達天皇の孫) 子女 漢皇子   天智天皇  間人皇女  天武天皇   皇居 皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮 ************** ◎日本書紀での人生の流れ 倭王一族(敏達天皇の曾孫)として誕生(594年) 高向王と結婚し漢皇子を生む 高向王死去 田村皇子と結婚 中大兄皇子を出産(626年) 大海皇子を出産(生年不詳) 夫である舒明天皇即位(629年) 舒明天皇死去(641年) 皇極天皇として即位(642年) 山背大兄王(厩戸皇子の子)が蘇我氏の襲撃を受け滅亡(643年12月30日) 乙巳の変 蘇我本家滅亡 兄である軽皇子に譲位して孝徳天皇即位(645年) 孝徳天皇死去(654年) 斉明天皇として再度即位(655年) 蝦夷平定 百済滅亡(660年) 筑紫の朝倉の宮へ出陣 斉明天皇死去(661年) 白村江の戦い(663年) ******************** 日本書紀系図はクリックすると拡大して開きます <斉明天皇に関する謎> ①高向王と結婚したあと田村皇子と再婚しているが、再婚相手が天皇の最有力候補で、しかも子連れで結婚したとしたら、こういうことはありうるのか。 ②初婚相手である高向王の父親が不明なのはなぜか。 ③最初に出産した漢皇子についてなんの記録もないのはなぜか。 ④皇極女帝として在位中に山背大兄王が蘇我氏によって滅ぼされたとされるが、皇極女帝にとって山背大兄王が邪魔だったのか。この滅亡にどう関与したのか。皇極女帝は蘇我氏の傀儡だったから関与しなかったのか。 ⑤宝姫が乙巳の変を事前に知ら

八幡宮の謎を解き明かす 神功皇后と応神天皇はあの人のことだった 神功皇后説話は権力奪取を正当化するための虚構

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2022.3.27 このブログを作っていて気が付いたこと。 宇佐八幡宮は全国の八幡宮の総本社として有名です。祭神は次のとおり。 一之御殿:八幡大神 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿:比売大神 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命) 三之御殿:神功皇后 息長足姫命 なおこのサイトは「古代史妄想探偵」ですから、世間一般の「常識」がどうであるかを土台にして、その「常識」の間違っているところを発見して推理することを目的としています。この場合、ウィキべディアがもっとも「世間一般の常識」を反映すると思うので、もっぱら「ウィキペディア」から引用します。さて。 八幡宮には謎が多いですが、祭神の神功皇后とその子である応神天皇は日本書紀に登場する歴史的?人物とされています。 神功皇后の話をごく簡単に説明します。 日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。 <神功皇后略歴:wikipediaより> 仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、 海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月 (仲哀天皇崩御の十月十日後) 、天皇の遺児である誉田別尊を出産。 翌年、 仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利 し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。 以上 さらに、神功皇后の夫である仲哀天皇の略歴について、重要なので以下のとおり。 即位8年、熊襲討伐のため妻の神功皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて 海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう 」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。 神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れら