⑥ 恐怖の戦闘部族物部氏

 倭人が飽きもせず古墳づくりに汗を流していた時代。

西暦で460年頃、吉備の国の王が新羅と通じて反乱を起こしたとき、雄略天皇が物部の兵士30人を送って一族を皆殺しにしたと日本書紀にあります。


普通、こういうときは大軍を繰り出して城攻めするんじゃないかと思うんですが、たった30人で一国の支配者を一族ごと皆殺しって。。。


このとき派遣されたのが物部氏なのです。

「モノの部(べ)」の「モノ」はどんな意味でしょう。


「武士や兵士」を「もののふ」というのは、どう考えても「もののべ」が由来だと思うのです。

「物々しい」という形容詞には「堂々としている。重々しい。大げさな。」という意味がありますが、これは重武装している様子が語源だと思われます。

つまり、「モノ」は「武具」を意味するのです。


「部(べ)」とは、ある特殊な仕事を担当する集団を意味します。

現代でも野球部とかサッカー部といった使われ方をしますが、「モノの部」だったら「武具を専門的に扱う集団」となるでしょう。

物部氏は要するに、武具を生産し使う人たち、すなわち戦闘のプロとして倭王から認められた氏族ということです。

反乱大名をたった30人で殲滅する方法として、忍者のようにこっそりと暗殺したのか、それとも「物々しく」堂々と正面から攻撃したのか。

いずれにせよ、よほど卓越した武器生産技術と戦闘技能を持っていて、派遣された30人という数にはなにか合理的な意味がありそうです。

当時すでに倭国は半島で高句麗の騎馬軍と数万単位の戦力で戦った実績があるのですから、大軍を動員することもできました。

吉備氏は岡山あたりで倭王権を支えた有力氏族であり、吉備王の住居は武装した兵士によって日夜厳重に警戒されていたはずです。反乱を起こしたのなら、なおさら厳重に武装していたでしょう。

物部の兵士はそこにわずか30人で押し入って吉備王一族を全滅させる実力があったのです。最新の武器とその使い方を日夜研究し訓練を積んでいたでしょう。

布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という剣が天理市の石上神宮に祀られていますが、この神社は物部氏が管理した大和朝廷の武器庫でした。

物部氏の恐ろしさは倭人社会全体で知れ渡っていたでしょう。

倭王直属の特殊戦闘部隊であった物部氏は、九州で起きた磐井の乱や半島出兵に際しても倭軍の統率者として数万の軍勢を指揮することがありました。

現代で言うならCIAみたいな存在か。徳川将軍家における井伊家よりもはるかに強い影響力があったかと思います。おそらく倭国全体に物部氏の出先機関があって、情報収集と分析も行っていたでしょう。

だからこそ、倭王権を支える最重要勢力として「大連(おおむらじ)」の筆頭たる地位を聖徳太子の時代でも保持していたのです。

戦闘のプロ集団としての伝統を自負する物部氏が、仏教文化の担い手として台頭する蘇我氏と対立するのは自然な成り行きです。

そして物部氏が蘇我氏と激突する丁未の乱がおこります。

このとき聖徳太子は14歳。

戦闘のプロである物部軍に蘇我氏が苦戦するこの戦いで、少年でありながら聖徳太子も参加していました。


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