⑬ 日高百三国同盟 高句麗の淵蓋蘇文クーデターの倭国への影響 倭国と百済の関係

 642年、淵蓋蘇文という高句麗の重臣がクーデターにより高句麗王と親唐派重臣数百人を殺害する事件が起きました。

淵蓋蘇文は唐との対決を覚悟して百済と同盟するため、反対派である高句麗王と親唐派を一掃したのです。

同時に高句麗は百済に、そして昔から親百済かつ反新羅である倭国にも同盟を求めます。

つまり、高句麗、百済、倭国の三国同盟をもって唐+新羅連合と対決しようということです。

元々、倭国と百済は特別な関係にありました。

石上神宮に今も伝わる七支刀は372年に百済王から倭王に贈答されたとされます。当初、百済の王都は漢城(ソウル)にあり、百済王家から太子が人質として倭国王の元に送られていました。

百済は高句麗からの侵略に備えて倭国の支援を受ける必要があり、倭国も半島南部の伽耶地方を確保するための防壁として百済が必要でした。

日本書紀では継体天皇(5世紀)の時代に、任那を百済に割譲したとの記録があります。

継体天皇は徳川吉宗のように分家から本家に入って倭王家を継ぎましたが、要するに倭国は政治的に不安定になっていたのです。

雄略天皇(継体天皇より半世紀くらい前の倭王)のあと、倭国は内部抗争が起きて半島に関わる余裕が無く、百済と仲良くすることで半島権益を守ってもらうようになりました。

この時代の百済王(武寧王)が倭王(継体?)に送ったとされる銅鏡が和歌山県の隅田八幡宮に伝わっています。

半島南部には倭人系の豪族がいたし、百済政府の中にも倭人系官僚がいたほどに百済と倭国は密接な関係でした。

欽明天皇の時代、東隣の新羅によって伽耶地方を占領され、百済へのテコ入れは期待はずれに終わりましたが、その後も百済は大陸外交の橋渡し役として倭王権に重大な影響を与え続けました。

こんな事情があるので倭国は百済と仲がよく、新羅とは敵対的であり、高句麗も本来は敵だったのですが徐々に友好的になっていきました。

ここで倭国は外交方針を根本から再検討する必要に迫られました。

そして、唐の半島進出に備えて高句麗と百済が倭国に同盟を求めたであろうこの時期に、倭国ではまた重大事変が起きます。


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