⑳ 今度は日唐同盟かい! 白村江敗戦後の倭国が壬申の乱へすすむ背景

 戦争に参加したら半島で領地や財宝がもらえると思っていたのに、身内や家来がたくさん死んだあげく、豪族としての権益を倭国政権に没収され、さらには人を集めろ、税を払えと負担ばかり押し付けてくる。


元々百済人が仕組んだ百済のための戦争ではないか。それなのに、いつの間にか中央政府の官僚になった百済人達が偉そうな顔で倭人に命令する。


仮にこの時期に日本という国家と天皇制が誕生していたとしても、一般の倭人の心には、日本という国家が誕生したという実感は薄かったでしょう。


侵略に備えて助け合うのだから今は我慢しよう。。。。


そんなとき、半島では重大な変化が生じていました。


百済と高句麗地域の権力の空白に乗じて新羅軍が侵攻を開始したのです。唐の駐屯軍は新羅軍によって追い出され、同時に新羅は唐に謝罪使を派遣して、新羅軍による軍事占領について、なんのかんのと弁解して時間稼ぎをしました。


唐にとって半島の小国に過ぎない新羅が裏切るとは予想外でしたが、唐はそろそろ、朝鮮半島の支配がやっかいであることに気が付きはじめていました。


隋の二の舞はご免だ。唐が新羅を討伐するには、この際倭国と連携した方が有利に違いない。もはや唐にとって倭国討伐どころではなくなってしまいました。


そこで、唐は白村江の戦役で捕虜にした倭人の返還を条件に、倭国との連合を目指す交渉を開始したのだと想像しますが、これを裏付ける記録はありません。


倭王であった中大兄皇子(天智天皇)は戦争に備えて権力集中を進める一方で唐のご機嫌を取る、いわゆる面従腹背外交を展開していました。


そんななかで唐から新羅征討のための連携の申し出があったとすれば、倭国滅亡の危機から脱する絶好の機会が訪れたことになります。


しかし、唐との連携はつまり、倭国が唐に従属し、唐の命令で新羅征討軍を半島に派遣することを意味します。


半島を統一しようとする新羅を抑え込むためなら、唐は褒美として半島に倭国の権益を少しばかり認めてくれるかもしれませんが、<日本の天皇>という新国家戦略はどうなるのか。


亡命百済人達は祖国復興の機会が訪れたと喜ぶでしょうが、倭人たちにとってみれば、

「今度は唐の手先として戦争するのか。新国家の独立のために唐と戦うんじゃなかったの?」

という気分になります。


国政改革によって既得権を奪われた地方豪族だけでなく、兵役や税の負担にあえぐ倭人達も、親百済的政策に対する不信感を募らせていました。

国政の主導権を百済人達から取り戻したい。


そうだ!あの人なら倭人のための政策を実行してくれるに違いない。

倭人達の不満が頂点に達し、古代史最大の激戦、壬申の乱へと突き進んで行きます。


前の記事 次の記事

このブログの人気の投稿

善光寺の謎 7世紀の謎を解くカギとなる斉明天皇の秘密

㉗ 神話と天皇 ~ アマテラスとスサノオの関係

㉒ 天武王朝の開始