㉕ 藤原不比等と日本書紀

 中臣鎌足は乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我氏を打倒し、その後も天智天皇を陰で支え続けた国家の元勲として日本書紀に記録されます。

 私が想像する鎌足は、百済語がペラペラで半島と倭国の裏事情に通じた人。その実態は百済の手先でした。倭国にはその昔からたくさんの渡来人がいて政策に関与していましたが、その中には外国に通じた者も少なからずいたはずです。

 百済の滅亡後は百済人官僚を率いて律令国家の整備に尽力し、倭国の陰の実力者になりますが、鎌足の死の3年後に壬申の乱が起きます。

 鎌足には「史人(ふひと)」という子がいて、壬申の乱のときには少年だったので、政治的迫害を避けることができましたが、天武政権で出世の見込みはなかったでしょう。

 しかし、持統女帝から目をかけられて徐々に昇進し、やがて持統女帝を血統の源泉とする天皇制の確立を目指して歴史編纂事業を推進しました。 

こうして元明天皇の時代に完成したとされる日本書紀は神話の時代から持統天皇までの歴史を記録した史書ですが、その内容は国を作った神々から天照大神を経て持統天皇に至るまでの血統が、一筋の糸でつながっていたことを説明する物語となっています。 

用明王家が倭王であったことの痕跡を消すために、推古女帝や舒明天皇を作り出し、実際の倭王だった厩戸皇子を摂政皇太子に変え、夫の天武天皇は天智天皇の同腹の弟、つまり敏達王家の血統であったことにした。

用明王家と敏達王家との間の王権の奪い合いが歴史上存在しなかったことにしたのです。

こういうことを主張してもトンデモ説としての扱いを受けるでしょうが、日本書紀に書いてあることを反証がない限り正しいと信じるのは宗教的情熱と似たようなものです。

現代の新聞報道でさえ政治的な偏向が見受けられるのに、国家創生期の政府報道に嘘がないわけがないのです。編纂期のたかが100年前、50年前、はたまたその当時のことでさえ嘘がありえます。かといって、すべてが嘘であっては成り立たないのも事実ですから、物証がなくても妄想していく必要があると考えています。

さて、藤原不比等らの努力によって、天皇たる資格は「実力」ではなく「血統のみ」というルールを確立しましたが、創始者が女性であったことと、藤原氏がセットになっていることが「この国のかたち」の重大な特徴となりました。


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