⑯ 百済滅亡 倭国の運命を変えた重大事件 倭国政策への影響 祟られた斉明天皇の死の謎
645年以降、高句麗は唐軍の度重なる侵攻を焦土作戦と持久戦でどうにか食い止めていました。
倭国では、斉明女帝が658年頃から阿倍比羅夫に北海道方面への遠征を進めさせていました。
この遠征では粛慎という北方民族との戦闘により能登馬身龍(のとのまむたつ)という地方豪族が戦死した記録があります。
斉明女帝は唐との戦争に備えて、北方の境界線を安定させておく必要を感じていたのでしょう。
先代の孝徳天皇(斉明女帝の弟)には有間皇子という息子がいましたが、有間皇子が謀反の容疑で処刑されたのもこの頃です。
この辺りも史実かどうか、ちょっと疑わしい部分です。
先代の王にちゃんとした息子がいたのに、姉が王位を継いだなんてことがありえるでしょうか。おそらく斉明女帝は孝徳天皇の姉ではなく、本当は妹だったのです。しかし、妹が兄から政権を奪取したのでは体裁が悪いので、斉明女帝(宝姫)の生年を実際よりも古く記録したと考えています。
というのも、書記の記録によれば斉明女帝は西暦660年で66歳になりますが、すこし高齢すぎかと。中大兄の皇子を33歳で生んだことなってしまいます。
まあそれはさておき、660年1月に高句麗から使者来訪の記録がありますから、倭国は高句麗支援に本格的に乗り出そうとしていたようです。
高句麗戦争がうまく行かないことに業を煮やした唐は、戦略を一転し、660年3月、水陸13万の兵力で海上から百済にへ侵攻しました。
不意を突かれた百済は一瞬のうちに首都を占領され660年7月に滅亡し、百済政府の高官や貴族の一部は倭国へ脱出しました。
斉明女帝と中大兄親子の政権にとって百済は重要な後ろ盾です。それが一瞬で消滅すれば当然、倭国政権も内部崩壊の危機に瀕します。
百済は唐軍に占領されましたが、その直後、百済の旧臣である鬼室福信らが反唐ゲリラ活動を開始するとともに、倭国に対し百済復興のための支援を要請しました。
倭国は人質であった百済王太子の豊璋を百済に派遣して反乱軍を支援しつつ、北九州に大本営を置いて朝倉の宮と呼び、ここを半島出兵の前進基地とします。
斉明女帝も朝倉の宮に移りますが、すでに67歳です。中大兄皇子というちゃんとした跡継ぎがいるのに、はるばる北九州へ出陣したわけですが、やはり年齢が気になります。実際はもっと若かっただろうと。
このとき朝倉の宮の周囲で鬼火(火の玉みたいなものか)が出現し、多数の側近が謎の死を遂げたうえ、陣頭指揮をとっていた女帝自身も朝倉の宮で病死したと記録されます。
健康だったから女帝はわざわざ出陣したのでしょう。中大兄がよほど頼りなかったのか。それなのに命を落としたのですから、「意外な死」だったと思われます。
恨みを持って死んだ誰かが鬼となって斉明女帝を呪い殺したと、当時の人々は解釈したのでしょうが、その鬼とは誰だったのか。
半島出兵を阻止したかったが、非業の死によってそれを果たせなった人でしょうね。
それについてはいずれ語るでしょう。
以下、日本書紀から。(現代語風)
皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮に着かれた。
この宵、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ・・・
以上
中大兄皇子が母(斉明天皇)を継いで中華と対決します。