⑰ 倭中激突 白村江の戦い 中大兄皇子の挫折と倭国の危機

 母(斉明女帝)から倭国政権を引き継いだ中大兄皇子は百済亡命政府の支援要請に応じて出兵準備を進めました。

半島から唐軍を排除して百済を復興し、倭国軍が高句麗軍及び百済軍と連合して新羅を滅ぼせば、伽耶(半島東南端)を回復せよという欽明天皇の遺命を達成し、倭国は東アジアの盟主になれるかも。

百済を占領した唐軍は南から高句麗領へ進撃しますが、その後、鬼室福信率いる百済反乱軍が後方をかく乱したので、唐軍はこれの鎮圧のために半島南部へ引返しました。

百済軍は倭国の支援を受けて粘り強く反唐作戦を継続しましたが、やがて鬼室福信と百済太子豊璋との対立が生じ、鬼室福信は豊璋によって暗殺されてしまいました。

中大兄皇子は661年、ついに朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)らにおよそ1万の兵を与えて半島に先発させ、翌年には上毛野君稚子(かみつけののわかこ)と阿倍比羅夫らの2万7千を送り、さらに廬原君臣(いおはらのおみ)率いる1万を送りました。

一方、唐軍は百済と倭の連合軍を迎え撃つため劉仁軌将軍率いる7000の水軍に半島東岸を南下させ、両軍は白村江というところで激突します。

水軍7000の唐軍に対し倭国軍は4万を超えますから、倭国軍が優勢に見えたかもしれません。

我等先を争はば、敵自づから退くべし(書紀)

突進すれば敵は逃げていくだろうという単純な戦法だったと記録されます。

これに対し唐軍は左右からの挟み撃ちに成功し、倭国軍は壊滅的な損害を受けたようです。

朴市秦田来津は奮闘のすえ戦死し、百済王は高句麗へ逃走。筑紫君の薩夜麻など生き残った者の多くも捕虜になったようです。

倭人達は唐軍の実力をどう認識していたのでしょう。

中国人は文明はすごいけど戦闘では大したことない。と甘く見ていたのでしょうか。

親百済政策はここに来て完全に裏目に出てしまいました。

倭国の存亡をかけて最大動員をかけたであろうこの戦役で、主力軍が消滅してしまいましたが、唐軍は対馬の目前に来ているのです。

唐軍が北九州から瀬戸内を経由して畿内に侵攻してくるかもしれない。唐軍には水上からの奇襲で百済を滅亡させ、数倍の兵力の倭軍を一瞬で壊滅させるほどの実力があるのです。

ここで中大兄皇子は倭国始まって以来最大の危機に直面することになります。


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