⓪ 7世紀の謎と推理ポイント

日本最初の女帝が推古天皇だったという日本書紀の記録がどうにも納得できない。厩戸皇子が摂政で皇太子であったということが不自然に思える。本当は、厩戸皇子(聖徳太子)は倭王だったのではないか。

倭王ではなかったとされる山背大兄王が蘇我馬子に襲撃された事件について、日本書紀の取り上げ方が奇妙すぎる。実際は山背大兄王が倭王だったのではないか。そして、この事件のあと、用明天皇の血統の誰かが傀儡倭王として即位したのではないか。

日本書紀では斉明天皇が重祚したことになっているが、乙巳の変で弟の軽皇子に譲位したあとで再度王位についたことが不自然である。本当は、軽皇子は斉明天皇の兄だったのではないか。そして、乙巳の変のときに倭王だったのは、皇極女帝ではなく、別の誰かだったのではないか。

斉明天皇が鬼のようなものから祟られていると考えさせる記述が日本書紀にあるのはなぜか。蘇我氏や善光寺の言い伝えとも関係があるのではないか。

天皇号の開始には重大な政治的背景があったと思うが、最初に天皇号の使用を開始した人物が明確に特定されておらず、その過程が説明されていない。おそらくは天武天皇が最初ではないか。

中大兄皇子は大海皇子に4人の娘を嫁がせていること、大海人皇子が壬申の乱において短期間に大義名分を得て反乱軍を組織できたこと、天武天皇の正当性が持統天皇によって否定されているように思えることなどが不自然です。天武天皇と天智天皇は父親が異なるのではないか。天武天皇は天智天皇よりも年上ではないか。

天武天皇の死後、持統天皇が即位したことが不自然である。よほど異常な状況でなければ、これだけ多くの王位継承者を押しのけて女帝が即位することはできない。持統天皇の即位の背景には重大な動機があり、持統天皇の血統の正当性を確立するために日本書紀が作られたのではないか。

斉明天皇の北九州出陣時の記録が日本書紀における神功皇后の活動と類似しているように思えるのはなぜか。神功皇后の子である応神天皇が九州から畿内に上陸して仲哀天皇の子を滅ぼしたことは、孝徳天皇と斉明天皇の関係に関連があるのではないか。

皇祖神である天照大神が女神である一方、その夫の須佐之男命が軽視されているのはなぜか。持統天皇の正当性を確立するためではないか。

伊勢神宮の成立事情が不明確だが、持統天皇の即位と日本書紀の成立に関係しているのではないか。

天武天皇とヤマトタケルが類似している部分があるように思えるのはなぜか。草薙剣との関係は。

出雲大社の成立事情には天武天皇が関係しているのではないか。牛頭天皇とは天武天皇、又は長屋王のことではないか。

聖徳太子が単なる優秀な政治家ではなく、神霊的な存在として崇拝されるようになった背景はなにか。聖徳太子に対して奈良朝の支配者はなにか罪悪感があり、怨霊を鎮魂しなければならない事情があったのではないか。

これらの疑問の全てを矛盾なく説明できる「歴史」を推理してみたいのです。


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