㉔ 新王朝を生んだ女帝
低い身分から唐の高宗の皇后に登りつめた武照という女性は、絶世の美女だったうえにあふれる才知と決断力と野心を兼ね備えていました。
高宗は気弱な皇帝だったらしく、政治を妻である武照に任せっきりになりました。百済復興戦争で倭軍が半島に出兵したとき、唐軍の戦略を統括したのは武照だったようで。
父(天智天皇)の野望を打ち砕いた中華帝国の本当の実力者が女性であり、その女性が新しい王朝の創始者になるであろうことを鸕野讚良は気づいていたでしょう。
ということで、天武天皇の死後、我が子である草壁皇子が即位前に死んだ後の690年、ライバル(大津皇子)の粛清を終えて鸕野讚良は天皇に即位し、さらに孫である軽皇子(のちの文武天皇)を皇太子にしたと書紀は伝えます。これが持統天皇です。
同じ年、武照も皇帝に即位して周王朝を開始しました。これが事実なら、妙に息の合った二人です。互いにその存在をどの程度知っていたのか、とても気になります。