㉙ 聖徳太子編あとがき

7世紀の歴史に不自然な点が多いのは、その典拠となる日本書紀に嘘が混じっているからです。だから日本書紀の真意を読み解かなければ真実に迫れません。

律令国家形成の青写真を作った厩戸王の功績は、倭王ではなかった摂政皇太子の功績として記録され、その王家の滅亡は蘇我氏の単独犯とされました。

厩戸王の霊が8世紀になって鎮魂対象となり聖徳太子信仰が生じたのは、持統王家の血統が断絶の危機に瀕した原因が厩戸王家の祟りではないかという罪の記憶がよみがえったもの。

日本書紀は持統天皇を軸とする天皇家の権威を確立するために藤原氏が作らせたものですが、7世紀の歴史の真実を振り返ったからこそ芽生える罪の意識です。

その視点に東アジア情勢を加味して分析すれば本当の歴史が見えてくるのではないか。と考えて7世紀を私なりに構築してみました。

激動の国際情勢に翻弄されながら権力をめぐって激しい闘争が繰り返された7世紀。

聖徳太子の子孫は法隆寺で一族妻子そろって自害して果て、乙巳の変では蘇我本家も同じ結末を迎えました。

孝徳天皇の後継者は中大兄皇子によって滅ぼされ、その母である斉明女帝は怨念にさいなまれて最後を迎えました。

持統天皇の母は父親を夫に殺され、切り刻まれて塩漬けにされた親の死体を目にしたかもしれません。

倭国は唐帝国に敗北して膨大な戦死者を出し、続く壬申の乱では持統天皇の夫が父の政権に対して反乱を起こしてこれを滅ぼしました。

その歴史を受け継いだ大海人皇子の妻が何を考え何をしたか。

その苦労の末に出来上がった日本という国のかたちを私達はもう少し真剣に考えた方がよいと思いました。

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