⑭ 斑鳩王家滅亡の背景 山背大兄王は倭王だった!? 蘇我氏の背後にいた者たち
倭国が百済と高句麗から三国同盟を持ち掛けられたであろう643年、倭国で重大事件が発生しました。
厩戸皇子の後継者である山背大兄王が突如、蘇我氏の襲撃を受け、滅ぼされたのです。
歴史の教科書では、厩戸皇子は摂政で皇太子とされていますが、私は聖徳太子こそ倭王であり、山背大兄王はその後継倭王だと推測しています。
法隆寺の金堂釈迦三尊像の光背に刻まれた文字では、厩戸皇子について「上宮法王」と呼び、最初の元号といわれる「大化」よりも古い「法興」という元号が使われています。
隋書において倭王は男であったと記録されているのに、倭王は推古女帝で厩戸皇子は摂政かつ皇太子だ」という日本書紀を信じろと?
厩戸皇子は高句麗と密接な関係にあったので、息子の山背大兄王も同盟に前向きだったでしょう。
しかし、中華との対立を恐れ、中立主義に徹したい蘇我氏が、反体制派と組んでクーデターを起こした可能性があります。
前年に発生した高句麗のクーデターの影響を受けて、蘇我氏も同様の手段に踏み切ったと想像できます。
このクーデターにより倭国は、蘇我氏が皇極女帝を傀儡とする政権に移行したと書紀に記録されています。
皇極女帝は舒明天皇の妻であり、その家系は敏達天皇(用明天皇の兄)から出ています。
日本書紀による系図
つまり、用明天皇の子孫である厩戸皇子の家系とは別系統なのです。
これは私の仮説ですが、この時代の倭国王家では用明系と敏達系の二つの家系の対立がありました。
結果的に敏達系統が奈良朝の天皇家につながり、その黒幕となる藤原氏(中臣氏)によって日本書紀が作られました。
教科書の歴史とは異なる大胆な推測ですが、山背大兄王が滅亡したあと、用明系統の誰かが傀儡倭王として一時的に擁立されたのではないか。
もちろんその傀儡倭王は書紀に記録されておらず、その倭王が誰であったかについて学説もありません。
そして2年後の645年、倭国情勢は誰もが知る重大事件「乙巳の変」へと向かいます。
妄想探偵推理の系図