④ 聖徳太子時代の国際情勢
ここで聖徳太子の時代の倭国の置かれた環境を眺めてみます。
聖徳太子が生まれた頃の倭国は半世紀前の「磐井の乱」の後は騒乱も少なく、倭王の権力は関東から九州北部にまで及んでいましたが、直接支配していたのは畿内周辺、つまり現在の奈良県、京都府、大阪府あたりまでだったと思います。
その他の地域には豪族が割拠していましたから、倭王は後の幕藩体制における将軍家のような立場で諸外国と外交していました。「諸外国」とは主に南北の中国王朝と朝鮮半島の3つの国、つまり北部の高句麗、南部の百済と新羅です。
半島の覇権を争う三国はそれぞれ倭国を味方につけようと必死で、倭国も半島南部に領地を持っていたところ、新羅の侵略を受けて欽明天皇の時代に手放してしまいました。これが教科書でいうところの任那日本府です。
欽明天皇(厩戸皇子の祖父)は任那(半島東南部)の再興を遺言して亡くなり、その後の新羅は基本的に倭国の敵でしたが、新羅はさまざまな外交努力で倭国との戦争を回避していました。一方、倭国は半島に軍事介入する熱意を徐々に失いつつあったようです。
倭国としては複雑な半島情勢に翻弄されるより、距離を置いて外交的に優位に立てばよいということでしょう。しかし西暦589年、東アジアの情勢を一変させる大事件が起きました。中国の北半分である隋によって南半分の陳という国が滅ぼされ、隋が中国を統一したのです。
歴代中国王朝は余力ができると領土拡張戦争を始めます。朝鮮半島も漢の時代には一時直轄領でしたから、隋が半島に勢力を拡大するに違いない。
しかも隋にとっては、脅威となる北方遊牧民を高句麗が支援することへの恐怖がありました。つまり隋は高句麗を滅ぼしたい。それを恐れる高句麗は百済と新羅を抑え込むために倭国と仲良くしておきたい。これが聖徳太子が二十歳になった頃の国際情勢でした。
高句麗が隋に滅ぼされたら、その次は百済と新羅が併合され、その次は倭国が危ない。隋に恭順したら倭国の独立は維持できるか。これが倭王にとって最大の政策課題ですが、どうでしょう。
隋と倭では国力だけでなく文明のレベルが違いすぎますから、半島が中国化されたら、西日本の豪族は中国になびくかもしれません。
当時の日本列島はいろんな言語を話す種族が雑居していて、まだ「日本人」が存在しないのです。
ほんの百年前には倭王自身が中華皇帝から将軍の称号をもらって喜んでいたくらいです。倭国の中国化を阻止するにはどうすべきか。隋に対抗できる国家を作るしかないでしょう。
ならば、どうやって地方のクニや特権勢力を倭王の管理下に置くか。これは明治維新における廃藩置県と同じで、地方から軍事統率権や税の徴収権を奪おうという企みですから、当然反発が予想されるし、失敗すると自滅します。
聖徳太子はどうやってこの課題を乗り越えようとしたのでしょう。