⑫ 唐と高句麗の対立 厩戸皇子の倭国政策への影響 唐と高句麗どちらにつくか
隋が618年に滅亡後、しばらく中国は戦乱状態となりますが、李淵が唐王朝を建国して、その後継者となる李世民が戦乱を制して628年、唐が中華を統一しました。
高句麗、百済、新羅の三国は唐との友好関係を構築する外交を展開しましたが、唐は早速、高句麗に圧力をかけてきました。
唐王朝の祖先はかつての北方遊牧民です。
北方境界線の安定が中華王朝の浮沈に関わる重大事であると認識していますから、北方草原地帯に台頭する突厥という遊牧部族が高句麗と結託するのではないかと気がかりでした。
631年、唐は高句麗に「京観」の破壊と遺骨の返還を求めました。隋高戦争における隋軍の戦死者を積み重ねて作った戦勝記念碑が京観です。
高句麗は国境に長大な防壁を構築して唐軍の侵攻に備え、その間、唐は西方異民族の征伐を進めていました。
こんな情勢のなか、百済は唐側につくのかと思いきや、642年、新羅に攻め込みました。
高句麗は隋に負けないほど強かったから、もし唐が高句麗に侵攻したとき、百済が高句麗に敵対して恨みを買うのは損である。
もともと高句麗は百済よりずっと強い国なのです。唐に味方するよりも、このスキに乗じてライバルである新羅をやっつけてしまおう。これが百済の戦略でした。
百済軍に敗北を重ねて滅亡の危機に瀕した新羅は、唐と高句麗に救援を要請しました。
唐は新羅の要請に応じて半島に出兵しますが、ここで高句麗において重大事件が発生します。
このとき倭国では厩戸皇子も蘇我馬子も推古天皇もこの世を去り、別家系の舒明天皇へ、さらに皇極女帝の政権へ移ったことになっています。
同時に、厩戸皇子の跡継ぎである山背大兄王が斑鳩の宮にいたとも記録されます。倭国が半島情勢の影響を受けないはずがありません。