⑦ 真実の7世紀を知ることの意味 日本書紀の謎を解くことは日本を知ることでもある
長々と聖徳太子ばかり取り上げるのはなぜか?
と思われるので、ちょっと横道にそれます。
一言で言えば、今日本が直面している情勢と7世紀の歴史は似ていると思うからです。
自然に根差した独自の社会があった日本列島に、激しい治乱興亡によって生み出された大陸の社会変革の波が及んできたのが弥生時代です。
やがて倭族の集団をまとめる親玉が中華皇帝から倭国王に任命される、いわゆる古墳時代へ移行しますが、この時代の中華王朝は南北に分裂していたので倭族にとって危険な存在ではありませんでした。
倭族は南朝と親分としてあおいでいましたが、南朝は倭族にとって政治文化の面で王権の後ろ盾となってくれるありがたい存在でした。
しかし6世紀末に北方の隋が南朝を滅ぼして中華統一を成し遂げ、あまった国力を領土拡張に振り向け始めました。
盃を交わした兄貴分の組が敵対する組に滅ぼされてしまった。かといって、敵の組長と盃を交わす気分にはなれない。なにしろ、こっちの方が漢王朝の流れをくむ由緒正しい系統の組織なのです。
その国際情勢を分析して未来を予想したごくわずかな倭人は、驚くべきことに、倭族の社会システムの変革を考えはじめました。
親分の組織が滅亡したことで、自分の道を模索する必要に迫られたのです。
まだネットもメディアもなく、人の移動に気が遠くなるほどの時間がかかる7世紀に、中華の政治情勢を分析して社会変革を立案し、独立した国家を夢見て実行しようとした人々がいた。
もちろん大多数は何も知らず、何も考えていない人々だから、変革に対して無意識に、しかし必死で抵抗します。
現代人でさえ、中華を巡って日本が直面している現実を他人事だと思っているけれど、1400年も前の時代にどうやって人の気持ちと社会の根本を変えられるというのか。
ウクライナ戦争だって、「脅すだけで侵攻はありえない」と言われてましたね。組織が体験したことのない危機にリーダーが備えようとしても、実際に痛みを感じるまで、大衆は気が付こうとしないものです。
その課題を乗り越え、たくさんの犠牲と苦難のはてに「日本という国家」が誕生した物語を <な・ぜ・か> 日本人は知りません。
10年間英語の授業を受けても英語を話せないのと同じく、この国で歴史の授業を受けても「日本とはなにか」という根本の部分さえ素通りしている。
しかし、歴史から学ぶという趣旨を思えば、今こそ日本誕生の謎を解き明かしたい。
そんな気分なので、私は中華が名付けた「倭」と、倭人が独自に生み出した「日本」
という言葉を意識して使い分けています。