⑮ 645年乙巳の変の黒幕 蘇我入鹿暗殺の理由 三韓の使者に百済の影

 645年、高句麗と百済が唐への入朝路をふさいだと、新羅が唐に訴えました。つまり、高句麗と百済は唐との対決姿勢を明らかにしたのです。

これを受けて唐は10万を超える軍勢で高句麗に侵攻しましたが、この年に倭国で乙巳の変が発生しました。

中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿と蝦夷の親子を打倒したとされるクーデターです。

教科書では乙巳の変により、皇極女帝は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。

息子(中大兄)が起こしたクーデターを原因として姉から弟に王位を譲ったなんて話は、私は信じられないのですが、誰も不思議に思わないようです。

ここで教科書とは異なる私独自の推察を述べます。


参考系図(日本書紀による)



蘇我氏が用明王家系統の誰かを傀儡倭王としていたところで乙巳の変が起き、蘇我本家が滅亡して傀儡倭王は軽皇子(孝徳天皇)に譲位した。

と考えないと、どうにも辻褄が合わないのです。

乙巳の変の原因は、蘇我氏が横暴だったから?

そんな単純な話ではないでしょう。蘇我氏が半島情勢に介入する気がないので、百済が同盟締結のために内政干渉した可能性を考えます。

だから、「三韓の使者」を迎えた大極殿で暗殺が実行されたと書紀に記録されているのです。

つまり、クーデターの黒幕は高句麗と百済。もっぱら百済です。


日本書紀によると、事件に遭遇した古人大兄(日本書紀では舒明天皇と蘇我氏系娘の子とされる)という王族が


「韓人(カラヒト)が鞍作臣(クラツクリノオミ:蘇我入鹿)を殺した。我は胸が痛む。」


と言って自宅に引きこもったと記録されますが、この人は後日、謀反の罪を着せられて殺されます。


「韓人」とは、すなわち半島から来た外国人という意味でしょう。


日本書紀は乙巳の変が中大兄王子(後の天智天皇)と中臣鎌足のおかげで成功したように表現する一方で、外国勢力の影を示唆する記述も残しているのです。

こうして誕生した新政権は完全なる親百済政権として唐との対決に備えます。

これに逆らう政敵は次々に粛清され、倭王となった軽皇子(孝徳天皇)さえ、中大兄らの反発にあって難波の宮に置き去りにされ、寂しくこの世を去ったと記録されます。

孝徳天皇は戦争準備に消極的になったため排除されたのかもしれません。元々、自分が倭王になること以外は念頭になかったのでしょう。

孝徳天皇の死後に即位した斉明天皇は、乙巳の変で退位したとされる皇極天皇と同一人であり、中大兄王子の母であり、孝徳天皇の姉であり、舒明天皇と再婚した宝姫でもある、実にややこしい人ですが、きわめて重要な存在です。

斉明天皇には、いずれ詳しく触れるでしょう。

百済の支援で実権を握った斉明女帝と中大兄の親子は、権力維持のため百済の力に依存せざるを得ない状況になっていました。

中大兄皇子。乙巳の変の時の年齢はおそらく20歳前後。新政権の黒幕としては若すぎると思います。

そして叔父にあたる孝徳天皇に実権がない。消去法で考えると斉明女帝が実力者なのか。しかし、百済という後ろ盾があっての政権です。

そんな彼らに、予想もしなかった悲報が突如舞い込みます。


百済の滅亡です。


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