斉明天皇が祟られた理由を分析

 斉明天皇は日本書紀の謎を解くうえで重要な、そして複雑怪奇な人物です。以下に日本書紀からわかるプロフィールを記します。(ウィキペディアより)

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諱(いみな) 宝(たから) 女性 西暦594年生まれ 661年死去

皇極天皇在位期間:642年2月19日 - 645年7月12日

斉明天皇在位期間:655年2月14日 - 661年8月24日

和風諡号:天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

父親 茅渟王 母親 吉備姫王

配偶者 一度目:高向王(用明天皇孫) 二度目:舒明天皇(敏達天皇の孫)

子女 漢皇子 天智天皇 間人皇女 天武天皇 

皇居 皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮

斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮


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◎日本書紀での人生の流れ

倭王一族(敏達天皇の曾孫)として誕生(594年)

高向王と結婚し漢皇子を生む

高向王死去

田村皇子と結婚

中大兄皇子を出産(626年)

大海皇子を出産(生年不詳)

夫である舒明天皇即位(629年)

舒明天皇死去(641年)

皇極天皇として即位(642年)

山背大兄王(厩戸皇子の子)が蘇我氏の襲撃を受け滅亡(643年12月30日)

乙巳の変 蘇我本家滅亡 兄である軽皇子に譲位して孝徳天皇即位(645年)

孝徳天皇死去(654年)

斉明天皇として再度即位(655年)

蝦夷平定

百済滅亡(660年)

筑紫の朝倉の宮へ出陣 斉明天皇死去(661年)

白村江の戦い(663年)

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日本書紀系図はクリックすると拡大して開きます

<斉明天皇に関する謎>

①高向王と結婚したあと田村皇子と再婚しているが、再婚相手が天皇の最有力候補で、しかも子連れで結婚したとしたら、こういうことはありうるのか。

②初婚相手である高向王の父親が不明なのはなぜか。

③最初に出産した漢皇子についてなんの記録もないのはなぜか。

④皇極女帝として在位中に山背大兄王が蘇我氏によって滅ぼされたとされるが、皇極女帝にとって山背大兄王が邪魔だったのか。この滅亡にどう関与したのか。皇極女帝は蘇我氏の傀儡だったから関与しなかったのか。

⑤宝姫が乙巳の変を事前に知らなかったとすれば、外交儀礼の場で暗殺が行われたのだから外交上の重大なリスクが懸念されたはずである。20歳の息子(中大兄皇子)が母親に無断でこんな大それたことを実行できるだろうか。

⑥息子が起こしたクーデターの直後に弟に譲位するということがあるだろうか。譲位すれば王位は弟の血統にうつるのが当然で、中大兄皇子が後継者になる道をふさぐことになる。しかも、あとで弟の子を抹殺して後継者争いに強引にケリをつけたことは愚かと思える。

⑦中大兄皇子の生誕年が記録されているのに、大海人皇子の生誕年について記録がないのはなぜか。

⑧斉明天皇が盛んに祟られているのはなぜか。誰かを裏切ったということだろうが、誰が祟っていたのかが記録されていない。

⑨聖徳太子と山背大兄王が神霊的存在として、あたかも鎮魂の対象のごとく扱われていたのはなぜか。

⑩筑紫出兵後の行動が神功皇后の事績に類似しているのはなぜか。


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これらの謎をきれいに矛盾なく説明できる物語がないものか検討してみました。

その結果、次の物語を想定するに至りました。ここでは「斉明天皇」をあえて「宝姫」と呼ぶことにします。


厩戸皇子は摂政ではなく倭王であったと考える(詳しくは「その倭王は男か女か」)。推古女帝は存在せず、厩戸王の死後、山背大兄王が倭王となった。

宝姫の初婚相手である高向王は用明天皇(山背大兄の祖父、厩戸皇子の父)の孫とされるが、初婚相手であるから田村皇子よりも王位に近い有力者であったと考える方が自然である。

厩戸皇子の系統が実際の倭王家であったとすれば、高向王は倭王家の近親者であるから、別系統(敏達天皇の子孫)である田村皇子よりも有力であったと言える点で、宝姫の初婚相手としては辻褄が合う。

おそらくは高向王が早世したので、宝姫は実家の叔父にあたる田村皇子に引き取られ、その流れで田村皇子と再婚した可能性が高い。この際に子連れだったかどうかが不明であるが、存命であれば漢皇子は有力な王位継承候補者である。

山背大兄王を蘇我氏が襲撃する際に、倭王家を滅ぼしたあとの傀儡倭王を必要とするであろう。倭王の有力候補でありながら蘇我氏のクーデターに与しやすい存在、しかも傀儡倭王として、漢皇子は絶好の立場にいる。

なぜなら、漢皇子はまだ若いが父がおらず、母の宝姫は実家の有力者と再婚して以降、実家に戻っていたと推測されるから、クーデターに際して宝姫の実家の与力をあてにできる。

宝姫の実家の有力者(軽皇子:宝姫の弟?)にしてみれば、漢皇子を倭王に即位させ、その母を後見人にすえれば、事実上王権を遠隔操作できるのである。

よって、蘇我氏は漢皇子の即位を条件として宝姫を誘い、宝姫の実家の筆頭である軽皇子をクーデターに巻き込むことに成功して、クーデターに自信をもった。

思い通り倭王家を滅ぼし、漢皇子を傀儡倭王にすえ、宝姫と軽皇子は倭王(漢皇子)の後見人として権勢を振るおうとしたが、実権は蘇我氏が握ることとなり、宝姫と軽皇子は徐々に蘇我氏に不満をもった。

当時、唐との対立を懸念する百済が倭国に同盟を求めていたが、蘇我氏は百済支援に反対の立場であったため、百済が宝姫と軽皇子にクーデターを働きかけ、乙巳の変を成功させた。

だから入鹿暗殺は百済の外交儀礼の場で百済の協力のもとに実行されたのであって、中大兄皇子はクーデターの脇役であった。

乙巳の変後、もはや不要となった漢皇子は迫られてか、又は自発的にか、早々に退位することになり、敏達王家一族の最有力者であった軽皇子が倭王として即位した。つまり、皇極天皇の存在は日本書紀によるデッチアゲであり、宝姫は重祚していない。

漢皇子はその後、死んだのか、謀殺されたのか、どこかで生き続けていたのかはわからないが、大海人皇子との関係が気になる。

つまり、大海皇子が漢皇子当人であったとすれば、のちに壬申の乱で天下を奪うことへの正当性があったことになり、壬申の乱で東国の豪族から担がれる理由も、反乱が成功する素地も、想像しやすくなる。

つまり、百済の謀略で権力を失った王家の生き残りだった。

ならば中大兄皇子が大海皇子に娘を4人も嫁がせた理由も想像がつく。

中大兄にしてみれば、大海人皇子は危険人物だからできれば抹殺したいところだが、母である宝姫がそれを許さず、大海人皇子を保護していたのだ。だから中大兄は大海人皇子を味方に取り込むことにし、かつ行動を監視するために娘を4人も嫁がせたのだ。

おそらく大海人皇子は伊勢、尾張、美濃あたりで長らく隠遁生活を送っていたから、前半生に関する記録はほとんどない。

だが大海人皇子がバクチ好きで庶民感覚があり、天文遁甲の術を身に着ける特殊な経験をしたことの説明としては充分である。

大海人皇子が元倭王だったという仮説が突飛すぎるにしても、漢皇子と大海人皇子が父を高向王、母を宝姫とする同血兄弟であったとも考えられる。

高向王は用明天皇の孫であるとされるが、父親がなぜ隠されているのか。

高向王の父親が厩戸皇子であっても矛盾はない。もしそうならば大海人皇子はあの聖徳太子の孫ということになり、大海人皇子こそ正当な倭王位の継承者であったということになるが、実家の王統を正当化したい持統天皇政権にとってこれは、なんとしても消さなければならない事実であった。

だから、漢皇子に関する記録を消し、大海人皇子の生年を削除して中大兄の同腹の弟だと嘘をつき、念のため高向王の父の記録も消し、なおかつ厩戸皇子の家系が倭王家ではなかったと説明するために推古天皇と皇極天皇をでっち上げた。摂政とか重祚とかいった、7世紀にしては場違いなエピソードについて、私はずっとなんとなく変だと思っていた。

なお、孝徳天皇は当初、明日香から難波(大阪)に宮を移転したが、百済との接近が新羅だけでなく唐との戦争に発展する可能性を意識しはじめて徐々に不安になり、やがて百済と距離を置くようになった。

そこで百済は宝姫と中大兄親子を密かに支援して彼らに実権を奪わせ、孝徳天皇の政権を骨抜きにして、倭国を親百済政策に戻させた。

だから、軽皇子(孝徳天皇)から権力を強引に奪い取った過去も消し去る必要がある。

そのため、宝姫が軽皇子の妹ではなく姉であったことにするため誕生年を古い時期に改ざんして、兄から王権を奪ったことの罪を薄めようとした。

姉が元天皇であり、弟に譲った王権を取り戻したという物語なら風当たりが少ないからだ。

こうして日本書紀の記録における筑紫出陣時の宝姫の年齢、中大兄出産時の年齢が異様に高齢になってしまったのである。

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妄想探偵が推理した系図(クリックで拡大)→


 

宝姫は誰に祟られたのか。

祟る人をここでは「鬼」としておきましょう。

鬼の候補として以下の人物が考えられます。


①聖徳太子と山背大兄王

→一族滅亡の原因に宝姫が強く関与している

②蘇我蝦夷・入鹿

→乙巳の変で宝姫に裏切られ殺害された

③孝徳天皇と有馬皇子

→宝姫の意思で権力を奪われ、又は殺害された

④古人大兄皇子

→乙巳の変後、謀殺された


どれも鬼の有力候補です。これほど多くの人から恨まれるのだから、地獄に落ちても仕方がないと当時の人々は思ったと想像されます。

では、善光寺縁起で書かれた「地獄に落ちた」ことの理由についてはどうでしょう。

善光寺が蘇我氏ゆかりの仏像を安置していたことから、蘇我氏に関係する鬼だったとすると、蘇我蝦夷入鹿が最有力候補だと思います。

日本書紀における、斉明天皇の即位の年の記述で夏の5月1日。

「大空に竜に乗った者が現れ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹でできた笠をつけ、葛城山の方から生駒山の方角へ空を飛んでいって隠れ、正午頃に住吉の松嶺の上から西に向かって馳せ去った。」

ここでの鬼は「唐の人に似ていた」とあります。

蘇我入鹿は外交戦略上、百済よりも唐を重視していたため百済の陰謀によって謀殺されたのだとしたら、鬼のかっこうが「唐の人に似ていた」ことには意味があるのです。

蘇我氏は倭国を守るため、超大国唐との対立を避けなければならないと考えていた。

つまり、倭国は百済と縁を切るべきだと考えていたのでは?さらには、唐に取り入って蘇我氏が足利義満のごとく倭王に任じられることを計画していたかもしれません。

どうあれ、斉明天皇が百済救援のため半島に出兵しようとするのを、鬼となって阻止しようとし、見事成功したのです。斉明天皇を呪い殺すという方法で。

中大兄の子である健皇子が若くして亡くなったことも、蘇我氏の祟りと関連付けられたかもしれません。

結局は中大兄が倭王となって半島に出兵し、白村江で唐軍に敗北しますが、中大兄皇子の政権は壬申の乱で用明王家の忘れ形見であった大海皇子によって滅ぼされ、蘇我氏の復讐は一度は果たされたようにも見えます。

それで蘇我氏に対する鎮魂の必要性が消えたのかどうか。蘇我氏を祀る宗教施設は善光寺くらいしか今のところ思い当たらないのですが、いずれほかにも思いつくかもしません。

同時に、宝姫らが参加したクーデターによって滅ぼされた厩戸皇子の子孫も祟りの主体と見ることができます。蘇我氏の仏教導入には厩戸皇子が深くかかわっていました。法隆寺は厩戸皇子や山背大兄皇子の鎮魂と密接に関係しているでしょうが、善光寺も関係しているのかもしれません。

日本書紀を書いたのは持統朝の女性天皇達と藤原不比等の周辺でしょうが、彼らにしてみれば、持統天皇の男系の祖母にあたる宝姫が蘇我氏や厩戸王家に祟られて復讐が果たされたことに恐怖を感じ、怨霊鎮魂を必要とした。これは奈良朝の後継者問題にも影響を与えたかもしれません。

有馬皇子については、鎮魂施設がどれなのかわからないのですが、どうなんでしょう。

ともあれ、以上の仮説が正しいとすれば、宝姫はたくさんの政敵を滅ぼして権力を握った恐ろしい女性のようにも思えます。

しかし、子を守るために必死だった母親としての一面もあったかもしれません。

このあたりはもはや小説の領域になるので、ここでおわりにします。


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