㉑ 古代史最大の兵乱 ~ 壬申の乱

 669年と671年、唐の郭務宗らが2000の唐兵を率いて北九州に上陸し、捕虜を返還したと日本書紀にありますが、当時の2000人はかなりの大軍です。

さて、これをどう解釈したものでしょう。我が国で外国軍隊の進駐を受けたのは、マッカーサーの時とこの時の二回だけです。

倭国は唐に従属する代わりに唐軍の進駐を受け入れ、見返りに捕虜の返還を受けたと思われます。

続いて倭唐安全保障条約に基づいて新羅に出兵することになるでしょうが、このタイミングで中大兄皇子(諡号:天智天皇)が死去しました。

日本書紀では病死とされますが、扶桑略記という平安時代の記録によると天智天皇は山階(やましな)というところで遠乗り(馬で散歩)していた際に暗殺されたことをにおわせています。

いずれにせよ中大兄皇子の子の大友皇子が跡を継ぎましたが、ここで大海人皇子が吉野で挙兵したのです。

大海人皇子は日本書紀によれば中大兄皇子の同腹の弟と記録されていますが、これを疑う説が多数あることを忘れないでおいてください。

中大兄皇子の死が672年1月、唐軍の撤収が同年5月、大海人皇子の挙兵が同年6月と記録されます。

挙兵の理由について教科書では「皇位継承争い」と説明されますが、そんな理由で天下を二分する大反乱を起こせるものでしょうか。


大海人皇子を支持する勢力がどのような存在で、なぜ支持をしたかが歴史上明らかではありませんが、これを解明することは日本成立の謎を解くカギとなるでしょう。

ここで参考となるのは明治維新の時代です。徳川幕府は国防のために集権化と近代化を目指して様々な改革に取り組みましたが、結局滅亡したのはなぜか。言い換えれば、反幕府勢力はなぜ幕府を滅ぼしたのか。

簡単に言うと、<幕府に任せておいてもムダ。>ということに人々が気が付いたからでしょう。それが決定的となったのは、おそらく第二次長州征伐のあたりです。

幕府軍が弱いということが明らかになってしまったことで、幕府には国を変える意思も実力もないと証明されてしまったことから、幕府の未来に誰も期待しなくなってしまった。

本当に強い国になるためには天皇のもとで有能な人材が協力し合って体制を根本から改めなければならないから新しい政府を作る必要があった。

さて。これと似たような現象が仮に7世紀で起きていたとしたらどうでしょう。

倭国の連合軍が白村江で大敗した時、倭人達は唐や新羅の実力をその目で見て心理的衝撃を受けました。これは幕末の武士たちが黒船を見た衝撃と似たようなものです。

倭王とそのとりまきである豪族層による連合政権の実態が時代遅れで愚劣な組織であることが明るみになり、その後の改革も人民に負担を強いるだけで既得権にとって痛みのない不公平な政策である。

しかもお人好しで愚かな倭人支配層を百済人官僚が狡猾に操って、その政権を乗っ取ろうとしている。

そんなとき、中華と対等の日出ずる国を作ると宣言したはずの倭王が、唐に屈服して百済人の願いのままに新羅征討の軍を起こそうとしていたとしたら、白村江の敗戦で心理的衝撃を受けた知識層がどう思うか。

たとえば徳川幕府がフランス政府とつるんで徳川家の譜代大名にのみ得となる「カタチばかりの改革(人民の負担増)」を全国で実行し、そのあげくに西欧列強に屈服して不平等条約を結ぼうとしたらどうなるか。

憂国の士がいたとしたら、じっとしてはいられなくなるでしょう。彼らが白村江でたくさんの友人や家族を失った人たちだとしたら。。。

既得権層や百済官僚と縁がなく、最新の科学(天文遁甲)を熟知し、武術にも長け、知識人層にとって「話のわかる男」で、しかもかつて隋と対等外交をやってのけた厩戸王の血を引ていていて、前の倭王の弟(実は兄?)でもある人物。

そんな人物が現政権から距離を置いたところでウロウロしていたら、期待されて当然でもあります。

もし歴史がこういう流れだったとしたら、壬申の乱は地方で増加した知識人層が中央の既得権層を排除して律令国家を樹立するための革命であったということになります。

大海人皇子は伊勢、尾張、美濃周辺で兵を集めました。その軍は赤旗を掲げ、兵たちは赤色の目印を付けていたと記録されますが、これは秦の始皇帝の暴政に対して反乱に立ち上がった劉邦(漢王朝の創始者)を意識していたとも言われます。

つまり大海人皇子軍にとってこの反乱は後継者争いではなく、革命による新国家の樹立を意図していたとも思えるのです。

東国の軍勢を率いて大海人皇子軍は政府軍を各所で連破して大津京を占領しました。

倭王であった大友皇子が首をつって自殺し、大海人皇子が天皇に即位するまでの一連の争乱を壬申の乱と言います。

大海人皇子の母である宝姫の最初の夫は高向王といい、高向王と宝姫の間に漢皇子という男子がいたと日本書紀は記録しています。

もしも、大海皇子が高向王の子である漢皇子と同一人物、又は同じ父を持つ弟であったとすれば、彼は敏達王家から王権を奪還し、厩戸王が夢見た「日出ずる国」を実現したことになります。


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