⑩ 隋高戦争の結末 隋帝国煬帝による高句麗侵攻が倭国に与えた影響 7世紀倭国の同盟政策と半島情勢

西暦598年頃、隋の文帝は水陸30万と号する兵力で高句麗に侵攻しましたが、洪水などで補給に支障がでて撤退しました。

現在の北京あたりから東北の北朝鮮国境へ至る陸路は山地と海岸線に挟まれた細い一本道で、当時は人口が少ない地域なので大軍で一気に侵攻するのは困難だったようです。

文帝を継いだ煬帝は611年、113万人を動員して再度高句麗への侵攻を開始します。当時の隋の人口が5千万人に迫るところだったので充分ありえる兵数です。

人類史において113万という兵力は桁違いの数です。この大軍が高句麗国境の西と南(半島側)からほぼ同時に攻め込みました。隋軍は勝利を確信していたでしょう。

ウクライナを高句麗に、ロシアを隋に、百済をベラルーシに、突厥を米国に例えたらわかりやすいでしょうか。しかし、突厥はNATOほどの存在感ではありません。

倭国にとっての友好国であえる百済は隋側について高句麗を攻撃しました。

さて、倭国はどうするか。高句麗は友好国で、隋は仮想敵国です。できれば高句麗を助けたいですが、高句麗と隋とでは国力の差は圧倒的です。

聖徳太子は622年まで生きました。高句麗出身で太子を補佐する僧恵慈は623年まで生きていますから、二人はこの戦争の進展を分析していたはずです。

高句麗は百済をけん制するため倭国に援助を期待したでしょうし、恵慈もそれを願ったでしょうが、出兵となれば百済、新羅との戦争になります。

百済も古い友好国ですが、高句麗を無視するのも心苦しい。結局は日和見となります。

戦況は当初、隋軍が優勢でしたが高句麗軍は焦土作戦で対抗し、高句麗領内に進軍した隋軍は補給難に陥ったところで反撃に合い、壊滅的な損害を受けました。

煬帝はその後も二度に渡って高句麗に攻め込んで失敗したうえ、その頃には土木工事の負担に耐えかねた民衆の反乱が頻発しました。

こうして隋は急速に衰亡し、618年に煬帝が部下に殺されて隋は滅亡します。

あっけない隋の滅亡を見て、聖徳太子はホッと胸をなでおろしたでしょう。結局、東の天子が生き残りましたが、中華帝国の恐ろしさも身に染みたでしょう。

そうこうしているうちに、早くも中国では新しい王朝が誕生しようとしていました。「唐」といいます。

唐は隋とは一味違う王朝です。再び中華王朝との外交問題が倭国を揺るがします。


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