⑪ 7世紀初頭の倭国の国力や人口などを妄想してみる
前回は、隋が高句麗に侵攻し、その失敗が原因で隋が618年に滅亡したという話でした。
ここで、この時代の倭国の情況を眺めてみます。
607年に隋の使者が倭国の王都に来て、その報告が隋書に記録されました。
(よそ様の参考リンク)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
この記録の中で私が気になった部分は次のとおり。
倭王の姓は「アマ」、名前は「タラシヒコ」、
号は「オオキミ」、王の妻の号は「キミ」、
後宮には女性が6、7百人いる。
太子の号は「リカミタフリ」。
「号」は個人名ではなく肩書みたいなものです。
倭王は男であり、太子、つまり後継者が定まっていて妻もいる。
とありますから、推古女帝がその後継者を決めるのに悩んだという日本書紀の記述とは、かなり矛盾します。
「アマタラシヒコ」の解釈には諸説ありますが、「天照彦(あまてらすひこ)」と私は推察します。
この時代すでに「アマ(天)」という概念を強く意識しており、「姓がアマ」の解釈は悩ましいですが、天照大神という神名とも関係がありそうです。
城郭はない。中央官僚には十二等級がある・・・
百済から仏典を手に入れて始めて文字を知った。
占いよりも巫女(シャーマン)の言うことを信じる。
倭国に文字が広まったのは百済から仏教が渡来したおかげであり、それまで文字は普及していなかったと認識されています。
九州から倭国への経路上に秦王国があり、そこの人は中華人と同じ風俗で、まるで伝説の夷洲のようだが経緯はわからない。
倭人の風俗は中華とはかなり違うのに、秦王国というところ(たぶん関門海峡付近)だけは中国と同じ風俗だったと記録されています。
八十戸に一人の伊尼翼(稲城か?)を置き十の伊尼翼が一つの軍尼(クニ?)に属している。軍尼が百二十人あり・・・
80戸で一つの稲城を、10個の稲城で一つのクニを構成しているとあります。
クニ一つが800戸ですが、後の律令制における「郡」と規模が近い感じです。
後の律令制の五畿内における郡の数がだいたい65郡ぐらいですが、倭王直轄領が全部で120郡あり、総戸数は約10万戸。
1戸の人口がよくわからないのですが、そもそも「人口」に乳幼児を含めていたかどうかで数値にかなりの違いがでますから、「現代的な人口」とはおのずと異なります。
労働ができる程度の人が1戸あたり10人だとして、おおむね倭王直轄であろう五畿内の人口は100万人くらいか。
倭王直轄領の規模を戦国時代のイメージで妄想すると、戦国時代における250万石程度の大名くらいか。
部民制の時代ですから、この数値は直轄の農村に限ったことであり、これに含まれない部民や部族の実態は不明です。
倭王は畿内に盤踞しつつ倭族全体の外交権を統括する筆頭大名でしたが、倭王に属す地方政権の人口などを全部あわせたら400万人~500万人ではないかと、ざっくり想像します。
高句麗の人口は120万人、百済が70万人、新羅が100万人、中華王朝が5000万人くらいとおおざっぱに想像します。
倭王は諸外国の国力を正確には把握していないかったでしょう。特に中華の国力については、日米戦争当時のごとく、かなり過小評価していたと想像しています。
いつの時代も国力の客観的評価は難しいのですが、隋の使者が倭国の政治体制や人口、軍政などについて、しっかり情報収集していたことが隋書の記録からわかります。彼らはスパイだったのです。
それでも日本書紀が正しくて隋書の記録が嘘であると言う人たちが多いのは、社会心理学的に興味深い現象です。