邪馬台国が九州にあったとしか思えない根拠を解説

  邪馬台国論争について、最近は畿内説が有力だと聞いても、邪馬台国が畿内にあったとは私には思えないのですが、それについて考えを整理してみました。

一言で言うなら、魏志倭人伝における以下の話が事実であるなら、邪馬台国が畿内にあったはずがない。という説明になります。

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女王国の南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。

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正始八年(247)、帯方郡の太守が魏国の官に到着して報告した。

倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。

倭国では、載斯・烏越などを帯方郡におくり、たがいに攻撃する状況を説明した。

郡は塞の曹掾史の張政らをつかわして詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。

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女王卑弥呼と狗奴国との間で戦争があったことが倭国から魏国に報告され、魏国は使者を送って互いに攻め込まないようさとした。

ということです。

さて。

もし卑弥呼の国、つまり女王国が畿内にあったとすると、狗奴国はその南の紀伊の国か、そうでなければ近畿より東の東海か北陸か、さらに遠くの関東あたりということになります。

この場合、女王国は九州から瀬戸内を経て畿内にまで及ぶ、つまり西日本のほぼ全域を支配する大勢力ということになります。

そんな女王国に対し紀伊の国の勢力が互角の戦いができるわけがない。女王国が紀伊の山中に攻め込んだら負けるかもしれませんが、紀伊から畿内に攻め込んでもし勝ったとしても、女王国は西国から兵力を動員して畿内を奪還するでしょう。

卑弥呼の政権が西日本の兵力を投入しても紀伊に勝てないほどの弱体政権であれば、女王国に属する西日本の地方勢力は女王国から離反してしまい、畿内に政権を維持することすらできない。

これは狗奴国が東海や北陸にあっても同じで、九州制圧後の豊臣秀吉に匹敵する勢力である女王国が、それより東に存在する狗奴国と戦って攻め込まれたあげく、恥を忍んでわざわざ魏国に使者を派遣してその恥ずかしい事実を報告して(要するに泣きついて)、困った魏国が倭国に使者を派遣して仲裁するなどということがありえるはずない。

このことは日本地図を見ながら想像してもらえば、細かく説明しなくともご理解いただけると思います。

女王国が狗奴国に攻め込んで敗北したのなら、そのあと魏国に泣きつくことはありえません。攻めなければよいのだから。

狗奴国が畿内に攻め込んで女王国が敗北したとしても、女王が軽々しく外国の援助を頼んだら、西日本に君臨する政権担当者としての立場がない。もし魏国に救援を要請するのなら、女王国が連戦連敗して国家存亡の危機にあったということになるが、そうならば畿内はもちろん、西日本の支配自体が崩壊する寸前という状態となっているはず。

仮に。魏国が倭国に使者を送って魏の詔書・黄憧を狗奴国人に見せたとして、畿内より東の地域の民が、中国風のそれらを見て何らかの政治的意味を読み取って、戦いをやめてくれるはずがないし、そんなバカげた意図で朝鮮半島から瀬戸内海を渡ってきて、はるばる魏軍が介入しようなどと考えるわけがない。

狗奴国が紀伊または畿内より東にあったとすれば、女王国と狗奴国との戦争に魏国がかかわれるはずがないので、邪馬台国が畿内に存在した可能性はゼロである。

では邪馬台国はどこにあったか。それは北九州だと思います。

ここから先は明確な根拠はなく、私の妄想となります。

邪馬台国は築後の矢部川流域(八女地域)にあった。

この地域は「矢部川」「八女」「柳川」「山門郡」といった「やめ」に類似する発音の地名が多く、古くから「やめ」と呼ばれる地域であった。

「やめ」の「ひと」という意味で「やめと」と呼ばれる集団が存在し、筑後川が氾濫して流域が壊滅した際に、「やめと」は進出して筑後川下流域を勢力下においた。

治水に成功して安定を得た「やめと国(邪馬台国)」は、筑後川中流域、現在の朝倉地方に進出し、その後、福岡平野に進出して倭国の覇権を得た。

そして、筑後川と御笠川を水路で連結することで、有明海から日本海にいたる物流ルートを実現し、その連結地点周辺に「投馬国」を築いた。

この地域と八女との間には「上妻」「下妻」という郡名が存在した。この地域名の「つま」は「投馬」と何か関係があったかもしれない。

有明海と日本海を結ぶ物流ルートの要衝であり、北九州支配にもっとも便利な場所を勢力の中心地とした。つまり、女王国の政治の中心地は朝倉地域であり、投馬国であったが、この勢力の発祥の地であり祖国でもあるのは「やめ」に存在する邪馬台国であった。

徳川幕府における三河と江戸の関係と同じと思えばよい。

では、魏の使者が来訪したときの状況はどうであったか。

女王が魏の使者を受け入れて対面するという面倒くさい儀式を行ったのはなぜか、を考える必要がある。

実際の狗奴国は肥後の国の北部、菊池平野にあった。

その王の名が「狗古智卑狗」であるが、読み方を「くこちひこ」とすると、菊池地方がかつて「くくち」と呼ばれていたこととつじつまがあう。

狗奴国の「くな」は、「熊襲(くまそ)」の「くま」の由来であるかもしれない。

つまり、南九州の勢力をまとめる存在だったのが、菊池平野に盤踞する「きくち彦」であったと考える。

この狗奴国と邪馬台国は仲が悪かった。

矢部川流域から勢力を拡大して、やがて日本海に出て半島交易を独占した邪馬台国は、倭国の各地域の有力首長を形式上の家来とし、これらに子女を婿入り嫁入りさせて姻戚関係を結んだうえ、各地に分家を配置した。

そういった分家、または姻戚関係の地方勢力の一つに狗奴国があった。

邪馬台国王家の後継者争いで政治的に敗北した狗奴国は、半島交易のわけまえから締め出されることとなり、やむなく有明海を経由して半島または大陸とのルートに依存することとなるが、当然ながら対馬ルートに比べて経済的に不利であり、邪馬台国との確執は決定的となった。

もう一つ重要な点は、矢部川の上流が菊池川の上流部とつながっていることだ。つまり、狗奴国人は矢部川を下って容易に邪馬台国に侵入でき、逃げるときは船にのって矢部川を下って有明海に出て、海から菊池平野に戻ることができた。

これが狗奴国と邪馬台国が「もとより不和」であった理由であったが、強大なはずの邪馬台国が狗奴国を相手にてこずってしまった理由であると思う。

邪馬台国は狗奴国を軍事的に制圧することができず、同時に狗奴国からいつ襲撃されるかしれないという弱点を抱えていた。

この不安定な状態を脱するために女王は魏国からの使者を迎える決意をしたのだが、これはつまり、魏国にとって倭国は軍事的に頼りになる存在ではなく、軍事的に支援しなければ魏国にとって不利益になる存在ということである。

倭国(女王国)が九州から畿内までを支配するほどの強大な国だったら、こうはならない。

魏国の使者は、帯方郡から対馬をわたり、末盧国(唐津)、伊都国(糸島半島)、奴国(福岡市)、不弥国(宇美町)。

ここから水路で投馬国へ、次にまた水路と陸路で邪馬台国に至る。

このとき女王は邪馬台国で魏の使者を受け入れたが、邪馬台国が首都であったとは限らない。

政治の中心は投馬国にあったが、魏の使者を迎える最終ゴールは邪馬台国にする必要があった。なぜなら、魏使の受け入れは今でいうところの「外交パレード」であり、魏の使者を長期間にわたって歓迎しながら、沿道の民にその権威と卓越した先進性を見せつけることに政治的な意味があった。

時間がかかる方がPR効果は高いから、魏の使者たちは短い距離をのろのろと、何度も宿泊し歓待を受け、地元民の目にさらされながら移動した。

その長い日数の移動過程を記した日誌をもとに魏志倭人伝の旅程が書かれたが、移動にかかる期間がやたらに長いのは、倭国が使者一行の旅程を無理やり長くするような対応をしたからであって、実際の移動距離は大したことはなかったのである。

倭国はしばらく前に後継者争いで内戦をやっていたのだ。女王卑弥呼を正当倭王として認めた中華王朝の圧倒的な文明度を見せつけることは、すなわち女王卑弥呼の権威を見せつけることでもあった。

そしてその見せつけるべき相手の中でもっとも重視されたのが狗奴国である。

肥後にある狗奴国の民は日ごろ中国と交易しているから、魏の使者の政治的意味を理解できる。

女王国のバックに魏がついており、朝鮮半島に駐留する魏軍が対狗奴国戦争に参戦した場合、狗奴国は魏と直接戦闘を交えることになる。

さすがに魏との直接対決は避けたいと狗奴国は考えるであろうから、女王にとっては狗奴国と目と鼻の先の邪馬台国で使者を迎えることは、狗奴国に対する威嚇となる。

しかし、魏はなぜ、このように倭国内の内紛に介入したのか。

それはおそらく、倭国に魏のライバルである呉の影響が及んでいたからだ。

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呉の孫権は230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷洲と亶洲の探索を行わせた。約1年後(231年)、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割がから九割を疫病で失っていた。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった*************

この記述のとおり、呉は海の向こうの島々を探索して入植したり、現地人と友好関係を結ぶなどして勢力拡大を図い、あわよくば朝鮮半島を脅かして魏に対する北方戦線を形成しようと計画していたに違いない。

夷洲(台湾)の先に琉球列島があり、その先は鹿児島県、南九州につながる。つまり、狗奴国に呉の勢力が浸透しつつあり、やがて倭国全土が呉の友好国になる恐れがあった。

そうなれば倭人が海を越えて朝鮮半島に攻めてくるかもしれない。

そういった事態を防ぐためには、北九州を支配する女王を親魏倭王として正当な倭王に認めたうえ、呉の勢力を倭国から一掃させなければならない。

これが魏と女王が手を組んだ理由である。

邪馬台国が畿内にあったら、こういうことにはならない。



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