⑧ 蘇我氏と崇峻天皇の時代 丁未の乱と暗殺の謎
古墳時代の大名連合政体を脱して律令国家への道筋をつけようとしたのが蘇我氏です。 物部守屋と蘇我馬子が王位継承候補を巡って対立し戦争に発展した丁未(西暦587年)の乱。戦闘は物部氏の本拠があった河内国の渋川で起きたと日本書紀にあります。 あまり信用できない日本書紀ですが、ほかに情報がないので信じることにしますと。 多数派工作が整ったところで蘇我氏側が突如軍勢を動かし、物部軍は本拠で防戦にあたりました。 物部守屋は木の上から矢を射っていたところを射殺された記録にあります。樹上からの射撃は命中率はあがりますが身をさらすので危険です。 矢の数が少なくなって大将自ら百発百中を狙うしかなくなったと推測します。つまり、蘇我軍は事前に大量の矢を準備することで物部の精兵に対抗したかな。 苦戦する蘇我軍の中に14歳の聖徳太子がいて、勝利したらお寺を立てますと仏さまに祈願したとか。 こうして建てられたのが、今も残っている四天王寺です。 勝利した蘇我馬子は娘婿である泊瀬部皇子(崇峻天皇)を用明天皇の後継として擁立しました。 崇峻天皇は用明天皇の弟で、聖徳太子は用明天皇の子でしたね。 この時代の倭王には実力と経験が求められたので、兄の後を弟が継ぐことがよくありました。 しかし、多大の犠牲を払って擁立された崇峻天皇は592年、なんと蘇我馬子によって暗殺されました。 臣下が王を暗殺するという重大事件なのに、どういうわけかこの事件で倭国の政情がゆらいだ記録がありません。 気になるのは、東国の貢ぎ物を持ってきた使者に対面する儀式の際に、東漢駒という者が倭王を暗殺したということ。 これと似たような事件がこのあと起きますね。乙巳の変では外国の使者と面会する儀式で蘇我入鹿が殺害されました。 警戒厳重な権力者を殺害するには、こんな方法しかなかったのかもしれません。 崇峻天皇は殯(もがり:遺体を埋葬しないでしばらく放置する葬礼)を省略されて埋葬されました。 一説には、非業の死を遂げた王の遺体が放射線のごとく周囲にタタリをまき散らすので、急いで埋葬したとか言われます。 では崇峻天皇はなぜ殺害されたのか。だいたいこの国でこういうことが起きるときは外交問題が絡んでいる可能性が高いです。 この時期から倭国は国際情勢の激変に翻弄されはじめるのです。 前の記事 次の記事