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⑧ 蘇我氏と崇峻天皇の時代 丁未の乱と暗殺の謎

 古墳時代の大名連合政体を脱して律令国家への道筋をつけようとしたのが蘇我氏です。 物部守屋と蘇我馬子が王位継承候補を巡って対立し戦争に発展した丁未(西暦587年)の乱。戦闘は物部氏の本拠があった河内国の渋川で起きたと日本書紀にあります。 あまり信用できない日本書紀ですが、ほかに情報がないので信じることにしますと。 多数派工作が整ったところで蘇我氏側が突如軍勢を動かし、物部軍は本拠で防戦にあたりました。 物部守屋は木の上から矢を射っていたところを射殺された記録にあります。樹上からの射撃は命中率はあがりますが身をさらすので危険です。 矢の数が少なくなって大将自ら百発百中を狙うしかなくなったと推測します。つまり、蘇我軍は事前に大量の矢を準備することで物部の精兵に対抗したかな。 苦戦する蘇我軍の中に14歳の聖徳太子がいて、勝利したらお寺を立てますと仏さまに祈願したとか。 こうして建てられたのが、今も残っている四天王寺です。 勝利した蘇我馬子は娘婿である泊瀬部皇子(崇峻天皇)を用明天皇の後継として擁立しました。 崇峻天皇は用明天皇の弟で、聖徳太子は用明天皇の子でしたね。 この時代の倭王には実力と経験が求められたので、兄の後を弟が継ぐことがよくありました。 しかし、多大の犠牲を払って擁立された崇峻天皇は592年、なんと蘇我馬子によって暗殺されました。 臣下が王を暗殺するという重大事件なのに、どういうわけかこの事件で倭国の政情がゆらいだ記録がありません。 気になるのは、東国の貢ぎ物を持ってきた使者に対面する儀式の際に、東漢駒という者が倭王を暗殺したということ。 これと似たような事件がこのあと起きますね。乙巳の変では外国の使者と面会する儀式で蘇我入鹿が殺害されました。 警戒厳重な権力者を殺害するには、こんな方法しかなかったのかもしれません。 崇峻天皇は殯(もがり:遺体を埋葬しないでしばらく放置する葬礼)を省略されて埋葬されました。 一説には、非業の死を遂げた王の遺体が放射線のごとく周囲にタタリをまき散らすので、急いで埋葬したとか言われます。 では崇峻天皇はなぜ殺害されたのか。だいたいこの国でこういうことが起きるときは外交問題が絡んでいる可能性が高いです。 この時期から倭国は国際情勢の激変に翻弄されはじめるのです。 前の記事   次の記事

⑨ 倭王暗殺の背景 聖徳太子(厩戸皇子)の改革と外交路線 高句麗情勢との関係

 中国では589年に北方の隋が南方の陳を滅ぼして統一を果たし、同年中に高句麗や百済が隋に使者を派遣しました。 この時点で高句麗は隋の侵略を想定し、倭国を味方に引き入れる外交政策を展開しますが、崇峻天皇の政権にとって、高句麗と隋、どちらにつくかが倭国の命運を左右します。 高句麗は仏教や最新技術の輸出をエサに、仏教擁護派の蘇我氏に接近しました。ちなみに聖徳太子の母親は蘇我氏です。 崇峻天皇暗殺後、推古天皇の摂政となった聖徳太子は仏教の発展に尽力したと記録されますが、太子には仏教の師匠として恵滋という僧がいました。 この僧は595年に高句麗からやってきた高句麗人で、聖徳太子の政治顧問だったと思われます。 崇峻天皇は、高句麗との連携に消極的だったから聖徳太子一派に消されたのか、それとも積極的過ぎたから消されたのか。もしや新羅や百済が関係しているのか。 崇峻天皇暗殺の6年後(598年)に隋の大軍が高句麗に侵攻して撃退されます。その後、高句麗は百済と新羅に攻め込んで背後の安全を図ろうとします。 これを知って倭国は、かつて倭国に属していた伽耶地方(半島南部)を新羅から奪還する好機と考えたようです。伽耶の奪還は欽明天皇の遺命でもありました。 4年後の602年に新羅征討計画を発動しますが、出征直前に軍司令官が死んだりしてとん挫したと記録されます。 このとおり崇峻天皇から実権を譲り受けた聖徳太子の外交路線は親高句麗、反新羅であり、同時に隋と敵対する覚悟を持ったとも推測できます。 603年に冠位十二階の制定、翌年に17条の憲法を制定と、隋の制度を学びながら中央集権化を進めていきます。 そして607年、小野妹子を隋に派遣しました。 そのときのやりとりは前に触れたとおりで、倭国は隋に服従しないで対等関係で望むという強気の、しかし微妙な外交を展開しました。 この外交路線は「高句麗は強い」という前提で成立します。しかし、その前提が崩れ去るかもしれない重大事件がこのあと勃発します。 前の記事   次の記事

⑩ 隋高戦争の結末 隋帝国煬帝による高句麗侵攻が倭国に与えた影響 7世紀倭国の同盟政策と半島情勢

西暦598年頃、隋の文帝は水陸30万と号する兵力で高句麗に侵攻しましたが、洪水などで補給に支障がでて撤退しました。 現在の北京あたりから東北の北朝鮮国境へ至る陸路は山地と海岸線に挟まれた細い一本道で、当時は人口が少ない地域なので大軍で一気に侵攻するのは困難だったようです。 文帝を継いだ煬帝は611年、113万人を動員して再度高句麗への侵攻を開始します。当時の隋の人口が5千万人に迫るところだったので充分ありえる兵数です。 人類史において113万という兵力は桁違いの数です。この大軍が高句麗国境の西と南(半島側)からほぼ同時に攻め込みました。隋軍は勝利を確信していたでしょう。 ウクライナを高句麗に、ロシアを隋に、百済をベラルーシに、突厥を米国に例えたらわかりやすいでしょうか。しかし、突厥はNATOほどの存在感ではありません。 倭国にとっての友好国であえる百済は隋側について高句麗を攻撃しました。 さて、倭国はどうするか。高句麗は友好国で、隋は仮想敵国です。できれば高句麗を助けたいですが、高句麗と隋とでは国力の差は圧倒的です。 聖徳太子は622年まで生きました。高句麗出身で太子を補佐する僧恵慈は623年まで生きていますから、二人はこの戦争の進展を分析していたはずです。 高句麗は百済をけん制するため倭国に援助を期待したでしょうし、恵慈もそれを願ったでしょうが、出兵となれば百済、新羅との戦争になります。 百済も古い友好国ですが、高句麗を無視するのも心苦しい。結局は日和見となります。 戦況は当初、隋軍が優勢でしたが高句麗軍は焦土作戦で対抗し、高句麗領内に進軍した隋軍は補給難に陥ったところで反撃に合い、壊滅的な損害を受けました。 煬帝はその後も二度に渡って高句麗に攻め込んで失敗したうえ、その頃には土木工事の負担に耐えかねた民衆の反乱が頻発しました。 こうして隋は急速に衰亡し、618年に煬帝が部下に殺されて隋は滅亡します。 あっけない隋の滅亡を見て、聖徳太子はホッと胸をなでおろしたでしょう。結局、東の天子が生き残りましたが、中華帝国の恐ろしさも身に染みたでしょう。 そうこうしているうちに、早くも中国では新しい王朝が誕生しようとしていました。「唐」といいます。 唐は隋とは一味違う王朝です。再び中華王朝との外交問題が倭国を揺るがします。 前の記事   次の記事

⑪ 7世紀初頭の倭国の国力や人口などを妄想してみる

 前回は、隋が高句麗に侵攻し、その失敗が原因で隋が618年に滅亡したという話でした。 ここで、この時代の倭国の情況を眺めてみます。 607年に隋の使者が倭国の王都に来て、その報告が隋書に記録されました。 (よそ様の参考リンク) http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm この記録の中で私が気になった部分は次のとおり。 倭王の姓は「アマ」、名前は「タラシヒコ」、 号は「オオキミ」、王の妻の号は「キミ」、 後宮には女性が6、7百人いる。 太子の号は「リカミタフリ」。 「号」は個人名ではなく肩書みたいなものです。 倭王は男であり、太子、つまり後継者が定まっていて妻もいる。 とありますから、推古女帝がその後継者を決めるのに悩んだという日本書紀の記述とは、かなり矛盾します。 「アマタラシヒコ」の解釈には諸説ありますが、「天照彦(あまてらすひこ)」と私は推察します。 この時代すでに「アマ(天)」という概念を強く意識しており、「姓がアマ」の解釈は悩ましいですが、天照大神という神名とも関係がありそうです。 城郭はない。中央官僚には十二等級がある・・・ 百済から仏典を手に入れて始めて文字を知った。 占いよりも巫女(シャーマン)の言うことを信じる。 倭国に文字が広まったのは百済から仏教が渡来したおかげであり、それまで文字は普及していなかったと認識されています。 九州から倭国への経路上に秦王国があり、そこの人は中華人と同じ風俗で、まるで伝説の夷洲のようだが経緯はわからない。 倭人の風俗は中華とはかなり違うのに、秦王国というところ(たぶん関門海峡付近)だけは中国と同じ風俗だったと記録されています。 八十戸に一人の伊尼翼(稲城か?)を置き十の伊尼翼が一つの軍尼(クニ?)に属している。軍尼が百二十人あり・・・ 80戸で一つの稲城を、10個の稲城で一つのクニを構成しているとあります。 クニ一つが800戸ですが、後の律令制における「郡」と規模が近い感じです。 後の律令制の五畿内における郡の数がだいたい65郡ぐらいですが、倭王直轄領が全部で120郡あり、総戸数は約10万戸。 1戸の人口がよくわからないのですが、そもそも「人口」に乳幼児を含めていたかどうかで数値にかなりの違いがでますから、「現代的な人口」とはおのずと異なります。 労働ができ

⑫ 唐と高句麗の対立 厩戸皇子の倭国政策への影響 唐と高句麗どちらにつくか

 隋が618年に滅亡後、しばらく中国は戦乱状態となりますが、李淵が唐王朝を建国して、その後継者となる李世民が戦乱を制して628年、唐が中華を統一しました。 高句麗、百済、新羅の三国は唐との友好関係を構築する外交を展開しましたが、唐は早速、高句麗に圧力をかけてきました。 唐王朝の祖先はかつての北方遊牧民です。 北方境界線の安定が中華王朝の浮沈に関わる重大事であると認識していますから、北方草原地帯に台頭する突厥という遊牧部族が高句麗と結託するのではないかと気がかりでした。 631年、唐は高句麗に「京観」の破壊と遺骨の返還を求めました。隋高戦争における隋軍の戦死者を積み重ねて作った戦勝記念碑が京観です。 高句麗は国境に長大な防壁を構築して唐軍の侵攻に備え、その間、唐は西方異民族の征伐を進めていました。 こんな情勢のなか、百済は唐側につくのかと思いきや、642年、新羅に攻め込みました。 高句麗は隋に負けないほど強かったから、もし唐が高句麗に侵攻したとき、百済が高句麗に敵対して恨みを買うのは損である。 もともと高句麗は百済よりずっと強い国なのです。唐に味方するよりも、このスキに乗じてライバルである新羅をやっつけてしまおう。これが百済の戦略でした。 百済軍に敗北を重ねて滅亡の危機に瀕した新羅は、唐と高句麗に救援を要請しました。 唐は新羅の要請に応じて半島に出兵しますが、ここで高句麗において重大事件が発生します。 このとき倭国では厩戸皇子も蘇我馬子も推古天皇もこの世を去り、別家系の舒明天皇へ、さらに皇極女帝の政権へ移ったことになっています。 同時に、厩戸皇子の跡継ぎである山背大兄王が斑鳩の宮にいたとも記録されます。倭国が半島情勢の影響を受けないはずがありません。 前の記事   次の記事

⑬ 日高百三国同盟 高句麗の淵蓋蘇文クーデターの倭国への影響 倭国と百済の関係

 642年、淵蓋蘇文という高句麗の重臣がクーデターにより高句麗王と親唐派重臣数百人を殺害する事件が起きました。 淵蓋蘇文は唐との対決を覚悟して百済と同盟するため、反対派である高句麗王と親唐派を一掃したのです。 同時に高句麗は百済に、そして昔から親百済かつ反新羅である倭国にも同盟を求めます。 つまり、高句麗、百済、倭国の三国同盟をもって唐+新羅連合と対決しようということです。 元々、倭国と百済は特別な関係にありました。 石上神宮に今も伝わる七支刀は372年に百済王から倭王に贈答されたとされます。当初、百済の王都は漢城(ソウル)にあり、百済王家から太子が人質として倭国王の元に送られていました。 百済は高句麗からの侵略に備えて倭国の支援を受ける必要があり、倭国も半島南部の伽耶地方を確保するための防壁として百済が必要でした。 日本書紀では継体天皇(5世紀)の時代に、任那を百済に割譲したとの記録があります。 継体天皇は徳川吉宗のように分家から本家に入って倭王家を継ぎましたが、要するに倭国は政治的に不安定になっていたのです。 雄略天皇(継体天皇より半世紀くらい前の倭王)のあと、倭国は内部抗争が起きて半島に関わる余裕が無く、百済と仲良くすることで半島権益を守ってもらうようになりました。 この時代の百済王(武寧王)が倭王(継体?)に送ったとされる銅鏡が和歌山県の隅田八幡宮に伝わっています。 半島南部には倭人系の豪族がいたし、百済政府の中にも倭人系官僚がいたほどに百済と倭国は密接な関係でした。 欽明天皇の時代、東隣の新羅によって伽耶地方を占領され、百済へのテコ入れは期待はずれに終わりましたが、その後も百済は大陸外交の橋渡し役として倭王権に重大な影響を与え続けました。 こんな事情があるので倭国は百済と仲がよく、新羅とは敵対的であり、高句麗も本来は敵だったのですが徐々に友好的になっていきました。 ここで倭国は外交方針を根本から再検討する必要に迫られました。 そして、唐の半島進出に備えて高句麗と百済が倭国に同盟を求めたであろうこの時期に、倭国ではまた重大事変が起きます。 前の記事   次の記事

⑭ 斑鳩王家滅亡の背景 山背大兄王は倭王だった!? 蘇我氏の背後にいた者たち

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倭国が百済と高句麗から三国同盟を持ち掛けられたであろう643年、倭国で重大事件が発生しました。 厩戸皇子の後継者である山背大兄王が突如、蘇我氏の襲撃を受け、滅ぼされたのです。 歴史の教科書では、厩戸皇子は摂政で皇太子とされていますが、私は聖徳太子こそ倭王であり、山背大兄王はその後継倭王だと推測しています。 法隆寺の金堂釈迦三尊像の光背に刻まれた文字では、厩戸皇子について「上宮法王」と呼び、最初の元号といわれる「大化」よりも古い「法興」という元号が使われています。 隋書において倭王は男であったと記録されているのに、倭王は推古女帝で厩戸皇子は摂政かつ皇太子だ」という日本書紀を信じろと? 厩戸皇子は高句麗と密接な関係にあったので、息子の山背大兄王も同盟に前向きだったでしょう。 しかし、中華との対立を恐れ、中立主義に徹したい蘇我氏が、反体制派と組んでクーデターを起こした可能性があります。 前年に発生した高句麗のクーデターの影響を受けて、蘇我氏も同様の手段に踏み切ったと想像できます。 このクーデターにより倭国は、蘇我氏が皇極女帝を傀儡とする政権に移行したと書紀に記録されています。 皇極女帝は舒明天皇の妻であり、その家系は敏達天皇(用明天皇の兄)から出ています。 日本書紀による系図 つまり、用明天皇の子孫である厩戸皇子の家系とは別系統なのです。 これは私の仮説ですが、この時代の倭国王家では用明系と敏達系の二つの家系の対立がありました。 結果的に敏達系統が奈良朝の天皇家につながり、その黒幕となる藤原氏(中臣氏)によって日本書紀が作られました。 教科書の歴史とは異なる大胆な推測ですが、山背大兄王が滅亡したあと、用明系統の誰かが傀儡倭王として一時的に擁立されたのではないか。 もちろんその傀儡倭王は書紀に記録されておらず、その倭王が誰であったかについて学説もありません。 そして2年後の645年、倭国情勢は誰もが知る重大事件「乙巳の変」へと向かいます。 妄想探偵推理の系図 前の記事   次の記事

⑮ 645年乙巳の変の黒幕 蘇我入鹿暗殺の理由 三韓の使者に百済の影

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 645年、高句麗と百済が唐への入朝路をふさいだと、新羅が唐に訴えました。つまり、高句麗と百済は唐との対決姿勢を明らかにしたのです。 これを受けて唐は10万を超える軍勢で高句麗に侵攻しましたが、この年に倭国で乙巳の変が発生しました。 中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿と蝦夷の親子を打倒したとされるクーデターです。 教科書では乙巳の変により、皇極女帝は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。 息子(中大兄)が起こしたクーデターを原因として姉から弟に王位を譲ったなんて話は、私は信じられないのですが、誰も不思議に思わないようです。 ここで教科書とは異なる私独自の推察を述べます。 参考系図(日本書紀による) 蘇我氏が用明王家系統の誰かを傀儡倭王としていたところで乙巳の変が起き、蘇我本家が滅亡して傀儡倭王は軽皇子(孝徳天皇)に譲位した。 と考えないと、どうにも辻褄が合わないのです。 乙巳の変の原因は、蘇我氏が横暴だったから? そんな単純な話ではないでしょう。蘇我氏が半島情勢に介入する気がないので、百済が同盟締結のために内政干渉した可能性を考えます。 だから、「三韓の使者」を迎えた大極殿で暗殺が実行されたと書紀に記録されているのです。 つまり、クーデターの黒幕は高句麗と百済。もっぱら百済です。 日本書紀によると、事件に遭遇した古人大兄(日本書紀では舒明天皇と蘇我氏系娘の子とされる)という王族が 「韓人(カラヒト)が鞍作臣(クラツクリノオミ:蘇我入鹿)を殺した。我は胸が痛む。」 と言って自宅に引きこもったと記録されますが、この人は後日、謀反の罪を着せられて殺されます。 「韓人」とは、すなわち半島から来た外国人という意味でしょう。 日本書紀は乙巳の変が中大兄王子(後の天智天皇)と中臣鎌足のおかげで成功したように表現する一方で、外国勢力の影を示唆する記述も残しているのです。 こうして誕生した新政権は完全なる親百済政権として唐との対決に備えます。 これに逆らう政敵は次々に粛清され、倭王となった軽皇子(孝徳天皇)さえ、中大兄らの反発にあって難波の宮に置き去りにされ、寂しくこの世を去ったと記録されます。 孝徳天皇は戦争準備に消極的になったため排除されたのかもしれません。元々、自分が倭王になること以外は念頭になかったのでしょう。 孝徳天皇の死後に即位した斉明天皇は、乙巳の変で退位したとされる皇極

⑯ 百済滅亡 倭国の運命を変えた重大事件 倭国政策への影響 祟られた斉明天皇の死の謎

 645年以降、高句麗は唐軍の度重なる侵攻を焦土作戦と持久戦でどうにか食い止めていました。 倭国では、斉明女帝が658年頃から阿倍比羅夫に北海道方面への遠征を進めさせていました。 この遠征では粛慎という北方民族との戦闘により能登馬身龍(のとのまむたつ)という地方豪族が戦死した記録があります。 斉明女帝は唐との戦争に備えて、北方の境界線を安定させておく必要を感じていたのでしょう。 先代の孝徳天皇(斉明女帝の弟)には有間皇子という息子がいましたが、有間皇子が謀反の容疑で処刑されたのもこの頃です。 この辺りも史実かどうか、ちょっと疑わしい部分です。 先代の王にちゃんとした息子がいたのに、姉が王位を継いだなんてことがありえるでしょうか。おそらく斉明女帝は孝徳天皇の姉ではなく、本当は妹だったのです。しかし、妹が兄から政権を奪取したのでは体裁が悪いので、斉明女帝(宝姫)の生年を実際よりも古く記録したと考えています。 というのも、書記の記録によれば斉明女帝は西暦660年で66歳になりますが、すこし高齢すぎかと。中大兄の皇子を33歳で生んだことなってしまいます。 まあそれはさておき、660年1月に高句麗から使者来訪の記録がありますから、倭国は高句麗支援に本格的に乗り出そうとしていたようです。 高句麗戦争がうまく行かないことに業を煮やした唐は、戦略を一転し、660年3月、水陸13万の兵力で海上から百済にへ侵攻しました。 不意を突かれた百済は一瞬のうちに首都を占領され660年7月に滅亡し、百済政府の高官や貴族の一部は倭国へ脱出しました。 斉明女帝と中大兄親子の政権にとって百済は重要な後ろ盾です。それが一瞬で消滅すれば当然、倭国政権も内部崩壊の危機に瀕します。 百済は唐軍に占領されましたが、その直後、百済の旧臣である鬼室福信らが反唐ゲリラ活動を開始するとともに、倭国に対し百済復興のための支援を要請しました。 倭国は人質であった百済王太子の豊璋を百済に派遣して反乱軍を支援しつつ、北九州に大本営を置いて朝倉の宮と呼び、ここを半島出兵の前進基地とします。 斉明女帝も朝倉の宮に移りますが、すでに67歳です。中大兄皇子というちゃんとした跡継ぎがいるのに、はるばる北九州へ出陣したわけですが、やはり年齢が気になります。実際はもっと若かっただろうと。 このとき朝倉の宮の周囲で鬼火(火の玉みたいなものか)

⑰ 倭中激突 白村江の戦い 中大兄皇子の挫折と倭国の危機

 母(斉明女帝)から倭国政権を引き継いだ中大兄皇子は百済亡命政府の支援要請に応じて出兵準備を進めました。 半島から唐軍を排除して百済を復興し、倭国軍が高句麗軍及び百済軍と連合して新羅を滅ぼせば、伽耶(半島東南端)を回復せよという欽明天皇の遺命を達成し、倭国は東アジアの盟主になれるかも。 百済を占領した唐軍は南から高句麗領へ進撃しますが、その後、鬼室福信率いる百済反乱軍が後方をかく乱したので、唐軍はこれの鎮圧のために半島南部へ引返しました。 百済軍は倭国の支援を受けて粘り強く反唐作戦を継続しましたが、やがて鬼室福信と百済太子豊璋との対立が生じ、鬼室福信は豊璋によって暗殺されてしまいました。 中大兄皇子は661年、ついに朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)らにおよそ1万の兵を与えて半島に先発させ、翌年には上毛野君稚子(かみつけののわかこ)と阿倍比羅夫らの2万7千を送り、さらに廬原君臣(いおはらのおみ)率いる1万を送りました。 一方、唐軍は百済と倭の連合軍を迎え撃つため劉仁軌将軍率いる7000の水軍に半島東岸を南下させ、両軍は白村江というところで激突します。 水軍7000の唐軍に対し倭国軍は4万を超えますから、倭国軍が優勢に見えたかもしれません。 我等先を争はば、敵自づから退くべし(書紀) 突進すれば敵は逃げていくだろうという単純な戦法だったと記録されます。 これに対し唐軍は左右からの挟み撃ちに成功し、倭国軍は壊滅的な損害を受けたようです。 朴市秦田来津は奮闘のすえ戦死し、百済王は高句麗へ逃走。筑紫君の薩夜麻など生き残った者の多くも捕虜になったようです。 倭人達は唐軍の実力をどう認識していたのでしょう。 中国人は文明はすごいけど戦闘では大したことない。と甘く見ていたのでしょうか。 親百済政策はここに来て完全に裏目に出てしまいました。 倭国の存亡をかけて最大動員をかけたであろうこの戦役で、主力軍が消滅してしまいましたが、唐軍は対馬の目前に来ているのです。 唐軍が北九州から瀬戸内を経由して畿内に侵攻してくるかもしれない。唐軍には水上からの奇襲で百済を滅亡させ、数倍の兵力の倭軍を一瞬で壊滅させるほどの実力があるのです。 ここで中大兄皇子は倭国始まって以来最大の危機に直面することになります。 前の記事   次の記事

⑱ 追い詰められて天皇誕生!? 東アジアで孤立した倭国の危機 日本誕生前史 百済人亡命の影響

 668年、百済に続いて高句麗が唐によって滅ぼされ、 唐は平壌に 安東都護府を 、 旧百済領には熊津都督府を設置し、 東アジアで唐に敵対する勢力は倭国だけとなりました。 唐軍が列島に侵攻し倭国滅亡。 倭国政府は唐軍の侵攻を防ぐため、北九州に水城などの防御施設を構築しつつ、首都を難波(大阪)から近江の大津に遷都しました。ここなら唐軍がきても船で東国へ逃げやすい。 兵士を大量動員する準備として、倭王権による戸籍編製が広域で強制実施されます。もはや地方豪族がわがままを言える状況ではなく、明治維新のような国家改造が一挙に進行しました。 この挙国一致体制を仕上げるにあたっては、倭国に亡命した百済人官僚が活躍しました。彼らはすでに律令国家制度を理解しているので、倭人官僚よりも優秀でしたし、漢文が書けるうえに、難民として世話になっているので必死です。 こうして百済人の手腕で律令国家が形成されてゆくのですが、百済人たちはその新国家を踏み台にして百済を復興したいと願っています。 一方、白村江での敗戦後、中大兄王子は天皇として即位したとありますが、考古資料において天皇号が初めて確認できるのはこの天智天皇の時代からという説があります。 天武天皇が最初の天皇だったという説もあって、私はどちらが最初であるかを特定できていませんが、堂々と積極的に天皇を名乗るようになったのは天武天皇からであろうと思います。 天皇号の使用開始は、中華の皇帝に対抗する新しい国家の成立を意味します。 豪族の連合政権の長に過ぎなかった倭王が、配下の諸勢力を統合し、百済、隼人、蝦夷などの周辺部族を服属させる新しい王朝を樹立して中華に対抗する。 その新国家の名称を何にしたらよいでしょう。 さて、皆さんが倭王の立場だったら、どんな名前を選びます? 前の記事   次の記事

⑲ 日が昇る国 倭から日本へ 国家名称「日本」の意味するものは?

 半島南岸で活動していた海洋民に対し中華は「倭」という字をあてました。 やがて倭族の中から「やまと」と称する集団が発生して奈良盆地に「やまと」というクニ をつくりました。 「やまと」はおそらく筑後川下流域の地域名又はそのあたりにいた部族の名称だったと 想像しています。 やまとの王が倭族全体の代表者として中国の南朝から倭王という称号をもらって喜んでい たのが古墳時代です。 「やまと」の直轄地域である奈良盆地周辺を「やまと」と呼ぶ一方、倭王が束ねる倭国 全体を意味して「大倭」という字をあて、これも「やまと」呼びました。 「イングランド」が「ゲルマンの一部族名であるイングル人が住む土地」の名称から始まり、やがて国家名称に昇格したのと似ています。 南朝が衰退して隋に滅ぼされるに及んで、倭王の独立志向が高まり、高句麗などからの文化 的影響を受けて、仏教を導入しつつ国家体制の整備を進めてゆきます。 はからずも唐と高句麗の対立に巻き込まれた「やまと」は、唐の軍事侵攻を受ける結果と なりました。 侵略に備えるには、まだ唐に属していない周辺勢力を味方に抱き込む必要があります。 倭族内では中央集権化を進めつつ、周辺部族を緩やかに支配する新しい国家体制を構築す る必要に迫られたのです。 その新しい国家の名前として選ばれた「日本」という文字にはどのような意味が込められて いたのでしょうか。 <日が出るところにあるので日本と名乗った。日本は昔の倭奴で小国だったが倭を併合して 日本と名乗った。>(新唐書) 倭王の後継者を「日嗣の御子(ひつぎのみこ)」というのは、太陽を神として祭祀する者という意味だと思うのです。 中華皇帝の象徴は夜に輝く北極星でしたが、昼は「太陽」が支配する世界です。 つまり倭王は北極星を中心とした世界秩序とは別の世界における中心的存在であると自覚したのですが、唐帝国の圧力が消えたわけではありません。 前の記事   次の記事